自分の過去の投稿をことさらにお勧めするというのは非常に恥ずかしくいたたまれなくて身の縮む思いです。ですが平和への祈りを今、新たに言葉を紡ぐことはとても難しい状況のため、しばらくの間、拙文「8月に思う」を投稿のTOPに表示させていただくことにしました。
世界(哲学的な方の世界ね)はずっと人類を見守ってきました。世界は答えを示さない。それは人類が世界に示すものだからです。この状況に人類がどのような解決法を見出すのか、それはこの世界に共に暮らす他の種にとってどのような影響があるか。透徹した目線と慈悲を以て、世界は今も人類を見守ってくれている気がします。
8月に思う
8月は物思う月。
顧みると幼い頃からずっと繰り返してきた。まあ私は8月に限らずいつでも雑多に考え事をしているのだが、それは物事を俯瞰するための土壌を手入れしているようなものだ。いわば筋肉のトレーニングと同じである。
8月の考え事は、他の時期とは少し違う。6日、9日、15日。そしてあの年からは12日も。慰霊のための祈りは私にとって「戦争って何だ?」「他の道は無かったか?」「他の道を選べなかったか?」「繰り返さないためにどうするか?」を考えることと同義だ。
毎年同じことを、年ごとに違う取っ掛かりで考える。ある年は歴史を長めに振り返った。ある年は世界の社会の仕組みについて考えた。ある年は価値観や道徳心の育て方について考えた。
戦争や事故の犠牲となった人を思って「安らかに」と願い、現在の社会、世界の未来の在り方を考える。過去と同じスタート地点から以前とは違う考え方に辿り着くこともある。ミクロな視点ではあるが、そんなことをずっと続けている。
「幼い頃のいつから?」と思い出そうとしたことがあったが辿れたのは4歳かせいぜい3歳まで。テレビで中継していた平和式典を見た時の「せんそう、ってなんだろう?」という疑問が始まりだったのだろうと思う。
父母は戦争を語れる年代ではなく、戦争を実体験として聞かせてくれる祖父母や伯父伯母もいなかった。このため、戦争について私が知り得たのは本や新聞やテレビといった媒体によるある程度整えられた体裁のもの。つまり戦争についての私的な情報がほぼ無い状態で公的な情報だけは揃えられるという極端な状態だった。この状態が私を「考える」という行動に向かわせた。「戦争とは?」と自らが考えることによって内的な空洞を埋め、均衡を得ようとしたのだ。
均衡は放っておくとまた失われてしまう。社会や世界の情勢は変わるし、私自身も成長したり劣化したりする。平和を願うこと。均衡を保つこと。戦場に迷い込んだ野生動物のような子供時代を送った私にとって、ニュースを見て考えることや内省することが習い性となったのは自然かつ必然だった。
とはいっても、大層なことを考えてきたわけではない。
アンテナを張りつつ流されずに自分の頭で考えること。
相手が在るときには相手も人間だとしっかりと思うこと。
3つの視点(自分と相手と第3者、現在と過去と未来、前進と後退と待機、良い方向と悪い方向と変わらない方向)を常に意識すること。
世界は人間のためだけに在るのではないと頭に置いておくこと。
知らないことや理解できないこと、受け容れがたいことなんて、何歳になっても世の中にたくさんあること。
それでも、どんなに時間がかかってもいつか理解できるように努め続けること。
受け容れられないことから距離を置くのは現実的合理的対処であること。
好き嫌いで判断しないこと。
赦すこと、慈しむこと。
いろいろあるけれど、たぶん、幸運にも育つ過程でまともな家庭教育を受けることができた人なら授かりものとして身に付いていそうなことばかりだ。そういう環境には生まれつかなかったけれど、私もまた違った形の幸運に恵まれたのだと感謝している。本を読み、社会に学び、他の人たちより時間はかかっても、これらの考え方に至ることはできたのだから。
最後はだいたい毎年こんな風に締めくくって、その年の8月の思考を閉じる。これは私にとって(少し時期遅れだが)「思考の虫干し」のようなものなのかもしれない、と最近は捉えている。
今年の夏も気候が厳しく、世の中はその熱に煽られるように落ち着かない。そのことがとても気がかりで、なのに一方で厭世的になってしまう。いくつもの虫の知らせがありながら客観性を持たせて論理的に伝えることができなくて、自分がもどかしく情けないからだ。
揺るがぬものは、他所様の子を戦争に送る選択はしたくないとの思い。わが子やわが孫ならその思いは一層強いだろうと想像する。戦争も社会の混乱も、そういう理由でお断りだ。
わたしにできることはあまりにも小さくて少ない。実効性について考え出したら日本海溝より深く深く落ち込んで、助けの手を差し伸べられても立ち直れないだろう。だから、ネットの辺境に得たこのサイトで祈りと自戒を込めて言葉を紡ぐ。
考えて、と。
思ったり感じたりしたことについて、「自分は何故そう思った?何故そう感じた?」と常に問い続けてほしい。理由に思い当ったら、更にもう一段階奥へ「本当にそうだろうか?」と自分に深く問いかけてほしいと思う。そして「相手はどう考えるか?」「本当にそうだろうか?」も忘れないでほしい。可能なら、相手と話ができる関係になることが理想だ。真に話ができる関係を総ての人と築くことはできないが。
他者の考えというのは実際のところ、直接そして正しく問答が成立してさえもその一部を窺い知ることしかできないものである。けれど近年は、自分の側から見た相手像を正解と祀り上げてしまう姿勢を糺さないケースが増えているように見えて、自戒もしているしとても心配している。
数は多くないけれどこの文章を読んでくださる方々とともに、偏りのない目線で地に足の着いた思考を重ねていけたらと心から願っています。
どうか明日も世界がここに在り続けますように。
想いの淵
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こんばんは、皆様。
今、長いブランクの後の挨拶としてどんな言葉がふさわしいか考えようとしたら、脳がクラッとしました・・・。
思っていた以上に長い長い不在となってしまいました。
もう少し早く帰ってきたかったのだけど、どうにも心の足元が定まらず、今も気力が回復した感じがまったく無いです。夫が年が明けてからずっと忙しくしているのも心配で、家族のニュートラルの状態を忘れてしまったように頼りない気分で過ごしていました。
そんな時期を狙ったように今年の気候はひと際奇天烈で・・・、丈夫や健康という言葉とは縁の薄いこの身には実に堪えました。特に7月はクーラーの効果を凌駕してなお気温上昇を続けるような日が連続して、50年以上生きてきた中で最も生命の危機を感じる猛暑でした。まだ夏は続いていますが、願望を込めて過去形です。
もう言葉を紡ぐことはできないのかもしれない…と思った日もあったのですが。気になっていたことやお伝えしておきたいことがあって、帰ってきてしまいました。久しぶりの投稿ですので今日はご挨拶まで。
日々お健やかにお過ごしくださいね。
12年目の311
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十二とせ いたみ送りて かえり着く
果てなきつとめ いつくしむ日々
無題
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こんばんは、と打ち込むのはずいぶん久しぶりになってしまいました。
皆様は健やかにお過ごしでしょうか?悲しいことが続くので、せめて、読んでくださる方々の毎日は穏やかなものだといいなと思います。
この冬、私はエネルギー切れで本当に駄目で…、ここに言葉を紡ぐことができずにいます。ここは公共の場で、私にとっての調律の場でもあるので、心を鎮め浄めるための水が流れ続けるような場所にしておきたくて。でも、いま無理に言葉を送り出しても澱んでしまいそうな気がするので何も書くことができません。人生そういう時もある。でも外に向けて開いている場所では戸惑わせる振る舞いですね。そこはごめんなさい。・・・・・「奉仕者でなければならない、だが外にエネルギーを注ぎすぎると立ち枯れた木のようになってしまうから気をつけなさい」と昔々言われたことがあるのだけど、大きくバランスを欠いてしまいました。…
自分のことは時間がかかっても自分で何とかするから。
いま助けを必要としている人達のもとに、どうか恵みが届きますように。