日別アーカイブ: 2019年2月4日

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「何かに導かれるように」サイトを始めた。そのあたりについて、少し。

30代半ば、衰弱した私は悟っていた。「次の春か秋の始まるころに命が尽きる」と。
すべての生命は共通の命題を課されていて大抵は死を迎えるときに果たすのだが、「今なら、子どものころには望むべくもなかった悪くない答えを出せるな」と考えていた。「死神の息吹」的な体験もした。とても静かな気持ちで残された日々を大切に生きていた。
そして生き延びてしまった。
今の私はオマケの時間を生きている。

そんな浮遊霊のような私でも、世間のニュースに心を動かされることはある。中でも児童関連のニュースは、取材が丁寧であればあるほど強い光を放っていて、「目を向けて。ちゃんと読み解いて」と訴えかけてくる。
数年前、10代半ばの子供たちがお金を目的に祖父母や老人の命を奪うという事件が相次いで報道された。そのうち1件の背景は、簡単に表現できるものではなくて、事件と裁判の経過が気に掛かってずっとニュースを追っていた。「犯人の少年は自分だったかもしれない」「少年の母が自分だったかもしれない」二重の意味で他人事とは思えなかったのだ。

この事件は(この事件だけではないが)多くの人の心を揺り動かしたのだと思う。
事件の翌年ごろから世間には「こども食堂」と呼ばれる場が多く生まれ、今も続いているようだ。行動力のある心ある人たちが尊い行いを為している。せめて寄付をさせてもらおうと調べたが、自分が心を寄せたいくつかの団体は寄付お断りとなっていた。昨今のネットの威力は凄まじいものがあるので特にお金のことは難しいのだ、社会にはいろいろ事情がある。
また同じころから児童虐待に関する報道が増加した。児童相談所の相談件数が増えたというデータがあって、注意を払う人が増えた結果、露見し事件化する数が増えたと分析する記事があった(リンク貼れなくてごめんなさい、準備はしておくものだね)。真摯に頑張っているお父さんお母さんがほとんどだと思うのであまり疑ってかからないでと祈りつつ、ニュースがあれば無関心ではいられない。

関心を向ける以外に何か、できることはあるだろうか。
先の事件の報道の中に、悲惨な状況下でもスマホを所持できていた間は少年もひとときの心のシェルターを確保できていたとあった。周りの先人たちの教えの場からこぼれてしまった子どもたちが、ネット上に自分を受け止めてくれる場所を自ら探せるというのは今の時代ならではの救いだろう。
自分がその救いになれるなどと大きなことは言えない。むしろ私の言葉は、多くの人にとっては理解不能で混乱をもたらすことのほうが多いと予測している。自虐ではなく、私の言葉は面倒極まりないらしいから。
それでも、こぼれてしまう子どもたち(過去にこぼれてしまった今は大人の人も含む)はそもそも既存の道が合わないのかもしれない、ネットに多様なやり方が挙げられていれば助けに出会える可能性がひろがるかもしれないと考えて、一歩踏み出すことに決めた。
これを読んで、空気が読めるから沈黙したり本音を隠したりしてきたというかたが「余力があるので自分も発信してみよう」と行動してくれたら嬉しいとも思う。あなたのその知恵が、誰かの助けとなるかもしれない。ニッチな私より守備範囲が広そうです。いかがですか?


今日の最後に。繰り返しになるけれど、
今まさにこぼれかけてサバイブ中のあなたへ。
あるいは、自分の一部が迷子になった過去に置き去りのままというあなたへ。

厳しい言い方かもしれないが正解に至る道は示してあげられない。
それは今はまだ存在していなくて、あなたがこれから作るものだから。
でも焦ることも絶望することもない。
たぶん、今はまだ道を作る時機ではないだけ。