前回は偏った話し方をしてしまった。もう少しかみ砕いた、思いやりある言葉を選べなかったかと反省している。ニュースを俯瞰していて、ヘイトや揚げ足取り、分断策が増えていると感じていたのでちょっと焦っていた。りっぱな老婆を目指しているのになんとも情けないことです。
うまく伝えられるといいのだけど。私は昔、小学校前くらいの頃、「自分で決める」ことが恐ろしくてたまらなかった。正しい行いや考え方を私に沁みこませようと身近に付き添ってくれる大人がいなかったから、怖ろしい嗤い方をする人たちに「バカだバカだ」と繰り返されていたから、「子どもでバカの私が何か決めるなんてあってはいけない」と心底おそれ戒めていた。選択を迫る人が現れたら憤りを覚えてしまうくらいに。
程無く、自分で決めさせてもらえないほうがもっと恐ろしいと気づいたが、気づくまでの「選択からの逃避期間」は悪い意味で楽だった。何もわからず恐がっているだけの自分を肯定できるのだから。それは本来幼い子どもにだけ赦されている「無知」という状態だ。その先に多くのことを知る将来が控えているから、恐がるだけの状態を赦されるのだ。大人が悪いことのために道具として便利に使っていいものではない。
前回は「それを忘れてしまったの?」と問いかけたかったのだ。忘れることだってある、思い出してみる?とそっと背を押したかった。そっとではなくバシーンと力強く押してしまった気がするので、ごめんなさい。
言われたことを鵜呑みにしないで、自分の目や耳などで感じて、自分の頭で考えて判断する。道具として使っていいのは「自分の思考力」のほう。自分に対して政治を行い、社会のためや善行のために長所短所をうまく使う。それが身につくことを成人すると言う。
20歳18歳というのは法的な分類に過ぎない。もっと年若くても、自分を律して行動を決めるしっかりした人はたくさんいる。増えてきた、とも感じている。頼もしく素晴らしいことだ。
このような変化を見ていると、中高生の頃に読んだインド系の哲学を思い出す。ヴィシュヌ(維持)の時が終わり、シヴァ(再生のための破壊)、そしてブラフマー(創造)へと移行しているのだと。激動の時代には、それを乗り越える器を持つ若い人たちが増える。それが天の采配、自然の摂理というものだ、と書かれていた。自分の死後よりも先の未来、そこに希望があることを願ってそんなことを思い出している。
哲学(宗教)は、子どもの頃に泣いて欲しても得られなかった当たり前で尊いもの、ためになる知恵を授けてくれた(哲学の前は物語だった)。西洋に始まり日本、中国、インド、古の時代と読み進んだが、全てに助けられた。だからこそ読書の果てに、目の前に存在している人との対話を大切に思えるところに辿り着けた。
いつか本の話もしたいと思う。
読みやすい文章をなかなか綴れないけど、気が向いたらどうぞ読みに来てください。
成人とは自分を治めている人のこと
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