老婆(予備軍)の台所とカテゴライズするからには「さぞや料理に自信があるのだろうね?」と期待されたかたがいらしたら、ごめんなさい。私は料理が得意ではありません。始まりからこんなこと綴って、このカテゴリ、存続が危ぶまれますね(汗)。
「なぜ食のカテゴリを作ったか」
ひとつには私が食いしん坊だから。
ひとつには食と生きることは切り離せないから。
ひとつには食が世界をつないでいるから。
ひとつには料理することで救われたから。
素敵なオリジナルレシピを紹介することはできないが、私にもひとつ伝えられることがあります。多くの人が知っている当たり前のこと(私はいつも当たり前のことしか言わない)。
少し調子が悪いなというときこそ、台所に立ってみてください。
人参や生姜。果物。ごぼう。切り分けたりおろしたりすると香りが立つ。その香りが私たちを元気にしてくれる。胃におさめるだけが食事ではないのですね。
このことは、中国の薬の事始めにまで遡る歴史ある知識です。嗅覚を刺激することで脳が活性化して、体のさまざまな働きを調整してくれるのです。オープンキッチンスタイルは外食でも住宅でもあっという間に定番の仲間入りを果たしたましたが、コミュニケーションを取りやすいだけが人気の理由ではなかったと見ています。
lawba’s kitchenでは、このような食にまつわる小話などをお伝えしていけたら、と考えています。私なりに理解した形で。ローカライズ、lawbaライズ、みたいな。
・・・いたたまれない空気が漂ってきたので、今日はこの辺りで失礼します。
月別アーカイブ: 2019年2月
フォローするよう老婆心が騒ぐ
虐待のニュースが見えない恐怖という病となってパンデミックを起こしかけている。今の虐待問題を取り巻く状況はそんな風にも見える。至極当たり前だ。世の中は、掛け声に合わせて一斉にすべての人がすべてのことを受け容れられるようには出来ていない。
ひどいニュースがいくつも出てくる。子どもでも大人でも、パニックを起こしそうという人がいて当然だ。そういう人は絶対に無理しないで、ニュースから離れる勇気を持ってください。虐待のニュースを追っていないのは非難されそう、と不安に思うかもしれないが気にしなくていい。虐待の問題はR指定的要素を備えている。余力が無い人や耐性の低い人に強制するようなものではない。
だからどうか無理はしないでほしい。このサイトで主張するまでもなく、自分のこと、身近なことをつつがなく切り盛りし守るという日々の積み重ねこそ、真実、こういった問題を未然に防ぐ第一歩なのだ。気になるなら、今は「いつか向き合えるようになった時に、目を向け考える、行動する」と自分に約束しておく、という形でいいじゃないですか。
それでもやはり気になってしまう人は「虐待で苦しむ人過去の虐待に苦しめられ続ける人がひとりでも減りますように」と心から祈ってください、毎日。投げたように聞こえるかもしれないが、人間は1人1人が世界の大切な要素の1つ。人の真摯な思いが世界のバランスを奇跡的に調整していることは、老境に踏み入った人なら大抵悟っていることだと思う。たぶん。だから心を向けるだけでも十分ですよ、と伝えたい。
宗教ではなく老婆心からフォローしておきたくて、くどいことを綴らせていただきました。
さて、無責任に聞こえそうなことばかりでもなんなので。
この問題、厚生労働省ではなく警察庁寄りで調整されていくことを個人的には望みます。理由は、24時間体制や法の執行について考えたとき、その方が合理的に見えるから。
そもそも論になるが、虐待の問題を「子どもの問題」と壁で別けたことが行き詰まりの原因の1つではないのか。傷害等を虐待という言葉で別物にしてしまうことに憤りを感じる人も増えている。虐待の陰には経済的あるいは精神的貧困が隠れていて、それは他の多くの犯罪も同じ。同じ構造を持つというか本来同じものなのだから、迂回させない方向にしたら時間短縮にならないかとシンプルに考えている。
突っ込んだところでは、荒唐無稽に聞こえるだろうがSITやいっそSATや爆発物処理班のようにチームを作ってあたってほしいから警察寄りで、と考えている。学校もそうだけど、「いつまで実務を1人に背負わせているの?」と問いかけたい。責任のほうは有耶無耶になるまで上に何人もかぶせて薄めるのに、この国の仕組みは逆さま。24時間のチーム体制なら抜け落ちることも減るのではないだろうか。頭数を増やすのは既定路線のようだから、現場が動きやすいようにしつらえてあげてほしいと願う。動きにくいから滞る、エコノミー症候群と同じ。物事を考えるとき、スタート地点の目線をシンプルにすることは大事。
「そうは言っても実際に国の骨格を仕切りなおすほうは大変だよ?」と政治家や官僚の皆さんは嘆かれるだろう。しかし、国民が関心を寄せていろいろな立ち位置で考えたことを集められる今がチャンス、とも思っていらっしゃるはず。経験やコネや知力の魅せどころじゃないですか。頑張ってまとめ上げて、銀座あたり?でモテちゃってください。じゃなかった、票や信頼や尊敬を集めちゃってください。茶化してしまったが、心からお願い申し上げます。
老婆心という厄介な属性
このところ子どもの虐待に関するニュースが後を絶たない。
明るみに出るようになってきたことを素直に歓迎している。虐待を受けている子ども側の第1歩は異常事態非常事態と認識すること、ニュースやそれに触発された大人の対応で、そこから脱出できる子どもが1人でも増えたら嬉しい。
同時に危惧もしている。コインの裏表で、真摯に子育てをしている親御さんがいたずらに嫌疑をかけられる危険が以前より増してしまった。この部分については本当に注意深く振舞ってほしいと、心からお願いします。虐待かどうか判断する目や耳を育ててください。
事件化する前というのは外からはよくわからない物。それでも例えば乳児なら、少し育てば家の外にも泣き声が聞こえてくる。親が信じられる相手だから「おなかすいたー」「おむつきもちわるいー」「ねむいー」と泣いているときの声と、痛みや苦しみから泣いている声は聴き分けられる人も多いでしょ?あれです。どの年代にも、外から見分ける鍵はある。
幼児くらいからは社会性が芽生えて、誰にでも何でも話すわけじゃないと隠し事をする子どももいるし親を守りたいがために嘘をつく子どももいるだろう。それでも100%ではないが見分ける方法はある。加害者に悪用される危険があるのでここには綴らないが、秘匿されている技術ではない。志あるかたは調べてみてください。
子ども、親、学校などの周囲の人たち、児童関連職や警察の人たち、そして私たち自身。すべてに対して「同じ生きている人間」と改めて意識しよう。虐待に限らずだが、誰かを叩けば問題が無くなるわけではない。
個人としては、究極的には、ひとりひとりが人間について(自分たちについて)理解を深めるしかないと考えている。
説話のひとつに「一を聞いて十を知る」とあるように、1割の情報で10割を理解することはむずかしい。この説話によって多くの人が幼いころに、世界のひろさ深さだけでなく「一を聞いて十を知ることは難しいから、もっと聞かせてもらえるよういっぱい話をしてみよう」という教訓を得たのではないだろうか。「もっと聞かせてもらうことが叶わない子ども」だった私は「一から十は無理でも五ぐらい理解できれば、後は他の情報で切り拓けるかな」と自分を弁えない方向に突き進んだ。観察や洞察の方法は多少養えたけどもっと普通の道を来たかったとも思う。
どんな道を通っても、人間を肯定することに帰結するものならばそれでいい。
その子も、その親も、その人も、あなたも、私も。同じ人間。
ストップ虐待だけでなく、ストップ冤罪、ストップ過労、ストップ過失。欲張って全部を、少しずついい方向に持っていきましょう。