日別アーカイブ: 2019年3月13日

8年前(3)11日14時46分~夕方

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本震と認定された揺れが収まった後の私は文字通り、何も手につかない状態だった。目立った怪我もなく意識もある。だが意識の表層を思考が他人事のように流れていくだけなのだ。
急に驚かされたりしたときに体中の筋肉がギュッと一瞬強張る。私の首筋から脳(実際には頭皮だろうが)もガチガチに強張っていて、正座していた脚の痺れが抜けるときのような空白感があった。

茫然自失のまま、情報を得なくてはとラジオを探した。幸いなことに、いつ購入したものだったか災害用ラジオをすぐに取り出すことができたので、震えが止まらず力も入らない指先でどうにか充電用のハンドルを掴んだ。地元のラジオ局、NHKラジオ、ミニFM、どこでもいい。この状態が何なのか、知らなくては。そう思って必死に充電しチューニングを合わせたはずだったのに、情報を得るより前、人の声が聞こえてきた時点で私の涙腺は決壊した。
離れた場所にも生きてる人がいた!大丈夫、世界は終わっていなかった!
ふわりと心が緩んで温かくなった。緊張して冷え切った体は通常どおりとはいかなかったけれど、とりあえず動けそうな気がした。

携帯電話は不通だった。家族については、ミニFMで付近の被害と避難の状況が聞けたのでおそらくは無事だろうと思われた。ラジオでは津波の警報も知らせていて、高さの予測がどんどん上がって津波としてはちょっと信じられないような数字の後「予測不能とにかく海から離れて!!!」に変わるまで、そう時間はかからなかったように記憶している。
私はというと、海のそばではないし、家も傾いてはいなかったので散乱した物をなんとかしようとしたのだが、地震と津波の情報が気になるうえ、休みなく襲ってくる余震のたびに玄関近くまで逃げては恐怖に固まるの繰り返しだったので、片づけはほとんど進まなかった。食器棚の中は後回しにして扉をガムテープで固定し、床に散らばった割れた食器を掃き集めた。
そうしているうちに電気が復旧したので、片づけを諦めてPCを設置しなおし、ニュースと掲示板やTwitterなどで地震や津波の情報を片っ端から拾い集めた。TouTubeの津波映像の中には福島第2原子力発電所から職員が海の様子を撮影したものもあったように思う。

3月の11日ともなると春分も間近で、日はそれなりに長い。
まだ明るさのあるうちに夫が帰還した。外は雪が舞っていた。互いの無事を15秒で確かめると、夫は「寝室の窓が開いてしまっている」「今すぐ水を貯める必要がある」と教えてくれた。夫は浴槽に、私は台所で大きめの鍋に水を確保した。寝室の窓を閉めながら、昼頃の穏やかな日差しを遠く懐かしく思った。
夫の存在にようやく少し自分を取り戻してみると、ふたりともひどい顔をしていた。エネルギーとビタミンが必要だった。文旦とクラッカーをふたりで食べながら、ぽつぽつと、努めて明るい声で話をした。
職場の様子を尋ねると、余震が続く中で夜間に片づけ作業もさせられないので一部の人を除いて今日は自宅待機になったという。大きな怪我をした人はいなかったというのでひとまずは安堵したのだが、職場には海に近い住まいの人もいて、自宅に向かったと聞き言葉を失った。
翌12日は早朝から出勤指示が出ていた。