日別アーカイブ: 2019年3月15日

8年前(4)11日夕方~夜

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「この文旦の味はきっと一生忘れないだろうね」と、夫と小さな笑みを交わした。無理に笑えば心が壊れてしまう、それでも無理のない程度には笑っていないと恐怖に負けてしまう。綱渡りの状態。自分たちは被災したのだと漠然と受け入れた。
阪神や中越の地震の光景を思い出した。写真や映像でしか知らなかった被災者の現実が今や目の前にあり、さらに続くのだ。今の状態のすべてを理解できなくても、浮足立ってはいけない。わかってはいたが、終わりの見えない数分おきの揺れが徐々に精神を疲弊させていく。いつまで理性を保てるだろうか。いつまで保てばいいのだろうか。

夕闇が迫るなか、水道が止まった。「ついに来たか」と2人で苦笑した。
ガス(都市ガス)は使えないのでカセットコンロを棚の奥から引っ張り出した。鍋文化のおかげで、少しだがカセットガスの買い置きがあった。
電気と通信ラインは生きていた。暗闇、空腹、情報ゼロで、1人きり、夜を迎えずに済むことを感謝した。
片づけは、やはり進まなかった。数分おきの地震のたびに私が空白状態になって停止してしまうので、夫も早々に見切りをつけて「片づけは今日は無理だね。体と頭を休めよう」と言ってくれた。安全なゾーンと避難ルートを確保して、当座の食事を考えたり、避難するとき持っていくものをまとめたりして11日の仕事は終わりとした。
水を貯めるときに準備した炊飯器のご飯が炊きあがったので、鶏胸肉を焼いて前日の残り物の和風のポトフで夕飯にした。温かいご飯がじんわりと力を与えてくれるように感じられた。

TVはずっとNHKのニュースをつけていた。
ひとつ気にかかることがあったのだ。夫が帰ってくる少し前だったろうか、「福島第1原子力発電所が全電源を喪失、第2原子力発電所は連絡が取れず」という情報をラジオで聞いていた。伝えられた内容は理解できたがその情報が示す意味がイメージできなかった。
電気が通っているから今ネットを見ているのに、原発には電力が行っていないという。その状況はすぐに判明した。原子力発電所と送電網をつなぐ大動脈のような部分で鉄塔の倒壊か何か(不明瞭で申し訳ない)があって送電が途絶えてしまったという情報が見つかって、ひとつ理解が進んだ。
だがまだわからなかった。「発電所が停電するとどうなるの??」
糸口もつかめないまま検索すると「チェルノブイリ」の単語がいくつもあらわれ、「えっ?」と思わず声が出た。地震でほぼ使い尽くしていたためか恐怖よりも戸惑いが大きかった。あれだけの地震に遭遇して大きすぎる余震もまだ続いていて、沿岸部では巨大津波の被害が出ていて、さらにチェルノブイリ的危機が迫っているかもしれないって?冗談?
検索結果の数行を読むだけでも冗談ではないことはわかったが、その先を今読むことはできないと思った。地震だけでもショックや恐怖の負荷が限界に近づいている。シリアスなチェルノブイリの記録と向き合って消耗することは避けたかったのだ。
ラジオやネットの情報から「電力供給により冷却が再開できればOK」「間に合わなければチェルノブイリ」と大雑把な理解にとどめておいて、吉報を待った。

時間が過ぎるということはその分破滅的状況に近づくということ。1時間。2時間。片づけ(ようと)しながら、荷物をまとめながら、夫と話しながら、注意の一部はずっとニュースの音声に向けていた。だが続報がいつまで経っても入ってこない。
夜7時枠のNHKの全国版ニュースでも冷却再開のニュースは流れなかった。史上稀なる規模の地震で東日本全域が被災地域、加えて津波である。ニュースとして伝えたい情報が膨大な量だったのだろう。記憶が間違っていなければ、最後のニュースは千葉の湾岸で起きていた化学的な火事だったと思う。地盤が液状化して消防車が近づけないという、そちらも確かに大変な事態のようだった。
遅い時間になってからようやく、冷却再開の見通しは立っていないという最新情報と解説が放送されたのだったか。しかし多くの人が視聴したであろう19時枠のニュースにおいて、地震と津波の情報と映像を繰り返し今後も続く可能性があると何度も注意を促す一方で、同時に進行している東京電力の原子力発電所のチェルノブイリ的危機については触れなかった。その姿勢が危機の深刻さを確信的に予感させた。