日別アーカイブ: 2019年3月16日

8年前(5)11日夜~12日午後

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11日の夜のうちに話し合って、避難所に行かないこと、私は1人で歩いて出かけないことなどを確認していた。
少し意地が悪いと思いながら「一応訊くけど、仕事も人間関係も捨てて他県へ避難する?」と質問もした。日本社会ではこういうことはあまり言葉にしないのが慣習だ。暗黙の了解あるいは察しの文化というものだ。倫理観、ものの考え方の半分くらいを西洋の文学や哲学に頼った私は中途半端に欧米化していて、こういうとき敢えて言葉ではっきりと確認してしまう。「わかるだろう?」は齟齬を生みやすい。増して非常時においては小さな齟齬もトラブルの元、命取りになる可能性もあるのだ。固有の文化は尊いものだ。それはそれとして、明言することも時には大切だ。
夫が割と軽く(明るく?)「しないよ、大丈夫だって」と答えたものだから、原子力発電所の状況を一緒に確認したことを思い出してもらい「時間的にはもうどうにかなり始めていてもおかしくないけど、それでも?」と重ねて質問した。少し考える目をした後、「そこまで危険となったらさすがに避難命令があると思う。だから明日(12日)は仕事に行く」と夫は答えた。妻こそ避難すれば、などと質問を返してきたので、夫とぬいぐるみのクマたちといる場所が私の『家』だと答えておいた。これで2人とも自らの意志と責任において自宅にとどまることが決まった。

どんな時でもしっかり眠れる人は、心身が強く健やかなのだと思う。夫は激しい余震の中、階段で地上に降りたために脚が攣り疲労を感じたらしく、23時をまわると就寝した。私は原子力発電所が気になって仕方なかったのだが、眠っておかなければという義務感から24時前にはやはり横になった。神経が張り詰めていて、地震で何度も目が覚めた。大きな余震が来ると起きだして地震情報を確認し、また眠った。
12日の明け方、一緒におにぎりとお茶の簡素な朝ごはんを摂った。夫はいつもよりずっと早く家を出た。見送りながら、出征を見送った人たちの気持ちと似たものを今感じているのかもしれないと思った。夕方また夫と、お互い無事に会えるだろうか。
部屋に戻り、PCで原子力発電所の情報を探した。原子炉の温度を伝えてくれているサイトが紹介されていたので、散らかった物を分類しながら時々確認した。見てどうにかできるものではなかったが、そこにある危機を見ないふりで放置できるほど自分は強くないと知っていた。逆にどんなに怖くても、状況が見えていれば我慢できる場合もある。原子炉の温度はじわじわと上がり続けていた。
気になっていたことはもうひとつあった。福島県の沿岸部の様子がまったく入ってこないのだ。津波のニュースはどの媒体でも得られたが、ほとんどが宮城県岩手県、茨城県などだった。被害が出ていないはずがない。だがYouTubeなどを探しても福島県の沿岸部の被害がわかる映像画像が見つけられなかった。
インターネットは使えても電話やメールはつながりにくかった12日の午前の段階では、居住地の身近な情報はミニFMが人脈を駆使して入手し伝えてくれた音声情報が頼りだった。「海沿いの地域では壊滅的被害を受けた模様」「詳細は不明」、きっとそれぞれに大切な人たちを思いながらだったろう、替わるがわる伝えてくれたDJさんたちの、真摯な声の色、祈りの響きを私は忘れない。

昼頃、TV局が居住地の災害対策本部や街なかの避難所の中継に入ってくれた。映像でようやく見ることができた地元の人たちはとても疲れた様子で、避難所には行かないと決めたことを少し申し訳なく思った。だが2009年には死に体だった私はようやく回復してきたところで、地震前の1年ほどの間は大きな工事が近くで続き、騒音と振動によって心身がひどく弱っていた。生死の境が淡くなって、1月末ごろから悪夢に叫ぶことも度々あった。それで、非常時のこの時、集団の中に混ざることは周囲にとっても自分にとってもリスクが大きいと判断したのだ。原因は自分にあり、行かないと判断したのも自分だった。望むことのすべてを叶えられる人などまずいない。
TV局による居住地の中継は、街なかだけですぐに終わってしまった。「中通り(県内の別の地方。福島県はそこそこ広いのだ)からアナウンサーまで連れてきたにしてはあっけない」と感じるくらいには短い中継で、なんとなく違和感を覚えた。
海沿いはこの後取材にまわって夕方ごろの県内ニュースで放送されるのかな、と作業に戻った。

結果から言うと、その日海沿いのリポートを見ることは無かった。
午後、福島第1原子力発電所1号機が吹っ飛んだ。こんな書き方をするともっと穏やかな言葉を選べないのかと叱られそうだが、素人目にはやはり「吹っ飛んだ」以外の何物でもない。(吹っ飛んだのは1号機ではなく1号機建屋、と書くのが正確らしいことを補足しておきます。発電所のたどった詳細についてここでは言及しません。興味を持たれたかたは、専門的な知識を有する方の記録で各自補完してください。)
いつもなら、無駄に終わるかもしれなくても情報を集め、思考を重ね、当面と今後の予測を立てる局面だった。地震が発生した時だって最初は恐怖に潰されないよう思考し続けた。でもそれは。画面の向こうで展開していたそれは、長年の習い性をも軽々と吹っ飛ばしてしまった。頭の中も心もぐちゃぐちゃになって、ぼう然と発電所の映像を眺めた。

のろのろと再び思考を立ち上げたとき頭に浮かんだのは「終わった」という言葉だった。