日別アーカイブ: 2019年3月20日

8年前(8)13日夕方~夜

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13日の朝追い払ったマイナスの気分は、地震におびえたり原子力発電所の情報を気にかけたりしながら避難計画を待ち続けた昼の間にまた膨れ上がっていた。夕方遅く夫が帰宅するまでに避難計画の発表は無かった。国などが計画の策定を進めているというニュースさえ無かった。
完成まで伏せているだけ?膨大な作業量にかかりきりになっていて途中で広報する余裕が無いから?もしかして・・・誰も作っていない?

13日の夕飯はご飯に明太子、残り少ない野菜でスープ、缶詰の大豆を黒酢ときび砂糖としょう油に漬けたもの。冷蔵庫はもうほとんど空だった。米とスパゲティ、小麦粉、ツナ他の缶詰に少しの乾物。震災前、料理はできるだけ手作りしようと頑張っていたのが裏目で、缶詰やレトルトも少なめだった。物流は停まってスーパーなども閉店していた。全体の方向として避難なのか復旧なのか、それがわからず落ち着かなかった。
「市町村単位だと大きすぎるし、会社単位あたりでそれぞれ避難してもらおうという方向だったりするのかな」夫に話しかけた。車で1日外回りをしてきた夫は眼が真っ赤だった。放射性物質の影響なのかどうかは、私には判別できなかった。家に引きこもっていた私の眼も同じく真っ赤だったからだ。私の方は、神経が細いせいで疲労を感じているのに眠れなくなっていたためと思われた。
「国の方向性とかは分からないけど、会社ごとに動いているところはあるだろうね」夫は、今日は外だったから自分の勤務先の上の状況は分からないと続けた。11日の夜と同じ質問をしなければならない時だった。ほんの2日前のことが随分と遠くに離れていってしまった。「仕事も人間関係も捨てる可能性はあるけど他県へ自主的に避難、する?」
夫は、今度は最初から深い眼差しで静かに答えた。
「しない」

そう答えると分かっていたのに一瞬息が詰まった。心の淵を覗き込まないように注意しなくては、と私の中に警報が鳴った。「2日前とは状況が違う。3日から1週間も経てば復旧するという話では無くなったんだよ?」「うん」「原子力発電所も1号機が爆発して終わり、ではない。今3号機も危なくなってるし、第1だけで他に4機もあって更に第2もあるんだよ?」「うん」「うん、って・・・」喉の辺りがぎゅうと詰まって声を絞り出した。「自主避難をしないってことは、・・・死の可能性を受け容れるってことだよね?」
声がどんどん細くなって、駄目だと思った。これでは相手に不安をぶつけているだけに聞こえてしまう。確かに不安だった。帰宅したとき夫は、明日は1日外で整理作業をする予定だと言っていた。こんなときに、外で。
「働いている人ってよく数字で根拠を出せとか言うくせに」私の中の警報が大きくなった。「燃料は容器の底にとどまっているはずだとか怪しすぎるでしょ。計器が駄目になっているうえに近づいて確認することもできないんだよ?過去の例も無いのに想像で言ってるだけ。政府と東電とで情報のやり取りも怪しいしリスク高過ぎ。きっと3号機ももうすぐ爆発しちゃう。そのうえ爆発があっても、私たちは知ることさえ無いかもしれないんだよ?あなたは明日1日屋外だって言うのに!」「大丈夫」「大丈夫って何が」「マスクだって妻がネットで調べてくれたとおり二重にして濡らしたティッシュ挟んでるから。また爆発するとか、しても発表されないとか憶測だよ」確かにそうだった。

大きく息を吸って声のトーンを戻して続けた。「憶測というけどそれなら、昨日からの地震の震源地と揺れ方のデータならどう?根拠として余程しっかりしているよ」
やめておくべきかと迷いながら、私は可能な限り平静に説明した。子どものころ水たまりの表面にはった氷を割って遊んだ人は、1回目では割れなかった氷面が2回目3回目とつづけるうちひびが拡がって割れやすくなるという体験をしただろう。夫ももちろん知っていることだったが、福島県浜通り南部から中部は炭鉱や鉱山の街で地中にはいくつもの坑道が掘られた。地震や津波で作動しない地震計やデータが送信されないものが増えているとアナウンスされてはいたが、通常より低い精度の暫定の震源地としてhotな座標が発電所の近くに2か所あった。1つは海、もう1つは陸で、閉山した鉱山を指していたのだった。
かつて街を支えた坑道、だが燃料や地球にとっては只のひびだ。水に浮く氷と違って、地面は割れて支えを失えば落ちてしまう。1号機の爆発の後から明らかに加わった直下の揺れは、支えを失った地盤が崩落しているのだ。燃料の現在地に関係なく、私達がいる地面はどこが壊れるかわからないとても危うい状況というのはあながち憶測でもない。
海でも陸でも大きな地震が続くなか、地盤のどこに、いつどんな方向性の力がどれだけ加わるのか、予測できる人がいるだろうか。この状況はスケールの大きなロシアンルーレットだった。あるいは。すでに割れた氷面なら更に衝撃が加わっても、ひびは力が加えられた氷面のみにとどまる。この特性に着目して、せめて地震をコントロールしようという閉山した鉱山の坑道を利用した映画のようなミッションが進められているかもしれないが、それこそ希望的観測に基づいた憶測というものだろう。
自衛隊や土木系の人達が応急処置をしてくれている道路も、いつまた壊れてしまうかわからない。早いほうがいい、今すぐ、道路が繋がっているうちに、みんな避難しなくては。
どんな説明をしたら夫にこの危機を理解してもらえるかと試行錯誤しているうちに、少しは落ち着いてきた。

しばらく間が空いて、口をひらいたのは夫だった。「つまり妻が避難したいんだね?」
心が沸騰した。夫は続けた。「気づかなくてごめん、妻1人で避難していいよ」ああ、こんなときに。平常心を保たなければならない時なのに。惧れと哀しみが拡がって、自制心が弛んだ一瞬に言葉が口をついて出た。
「信じられない」信じられないのは自分だ。「なんてこと言うの?」本当に私何言ってるの。「私は、自分が避難したいんじゃなくて」そうだ。「あなたに避難してほしいだけ!」そう。「2年前、春の初めか夏の終わりに死ぬ予感があって、あなたにも伝えて準備していたでしょう?何故か生き延びちゃったけど。あの時さんざん死と向き合ったから覚悟はできてる。今自分が死ぬことになっても、時期が遅れたというだけ。でもあなたには死んでほしくない。あなたはまだ生きられる。私はあなたのこれからを諦められないよ・・・!」・・・そう。そうなのだけど、こんな言い方をしたって伝わるわけないじゃないか。

後悔がじわじわ広がっていった。夫に生きていてほしいという思いは心からのものだった。だがそれが言葉になったのは、待ち続ける避難計画の発表が未だに無いことへの八つ当たりだ。私はなんて愚かで小さいのか。
そもそも全体避難計画が作られるとは誰も言っていないのだ。傷んだ道路でバラバラに避難を始めて渋滞したところに余震や発電所の事故が起こればパニックになる、そう危惧した私が勝手に期待して1人で待っていただけ。燃料は容器の底にとどまっているはずだ、というのと同じで根拠の無い願望だった。
夫に謝って、気持ちをまっすぐに整えよう。
口を開いたら被ったので譲ったら、ごめんと先に謝られてしまった。「察したつもりで『1人で避難していい』なんて全然解っていなかった」「私こそ言い過ぎた、ごめんなさい」

今度は間を置かずに夫が「給水に行く?」と尋ねてきた。「こういう時は場所を替えて気持ちを切り替えるほうがいいって前に言ってたから一応訊いたけど、放射性物質が怖かったら1人で行ってくる」とんでもない。自分の水くらい自分で運べなくてこれからどうする。
夜の街を2人で給水所に向かった。前夜、給水に向かった車中で、子どものいない私達は避難の最後の方のグループだね、と話しかけてお互いの覚悟を促そうとしたことが思い浮かび、消えていった。夫は未成年の私の子どもではない。助かってほしいとどんなに私が願っても、強制することはできないのだ。
例のTV局の前を通りかかると今日も真っ暗だった。不意に、昨晩ひと気が無いと感じた理由を理解した。大抵いつも表にあった中継車が無いのだ。高価な機材を積んでいるのだから防犯のために車庫にしまったのだろうと想像できたが、ささくれだった私にはそんなことさえ毒だった。
小さくため息をついて目を逸らした。この先どうするのが最善なのかはわからなかったが、少なくとも、明日からは給水所に向かうルートを変えたほうが良さそうだと思った。


8年前(7)13日朝~昼間

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長かった12日が終わり、翌13日日曜日。
夫のその日の仕事は市外から作業に入ってくれる方たちのナビだと聞いていた。家には風邪用のマスクしか無くて、2枚を重ね、間に濡らしたティッシュを挟んだだけで出かけていく夫を見送らなければならなかった。不安だったが、「昼間のうちにはきっと避難計画がまとまるよね!」と明るく送り出した。そうすることしかできなかった。目には見えない放射性物質が飛んでいることは数値が示す通り明らかで、そんな中を夫は1日中車で走り回り、私は少しは安全な屋内に残る。その現状がとてもつらかった。
家に1人残った私を感情の疲労が襲った。持ちきれないほどに大きくなってしまったマイナスの感情が、気分の落ち込みとして一気に来たのだ。
抑え込んではいけない、と経験が告げていた。今は家に1人なのだ、好きなだけ落ち込んでいい。すとんと表情筋を落としてそっと目を閉じた。そのまま、考えることも休んで波が去るまで数分の間じっとしていた。

換気扇周りや窓は、爆発の少し後に大雑把に目張りしておいた。充分ではなくても、できる備えはしておかなければならない。しっかり塞ぎ直していたら少しやる気が出てきた。
ニュースとネット、自治体などのHPを閲覧した。全体の避難計画の発表はまだ無かったが、自衛隊が到着して道路の点検や補修が始まっていた。マスク等の装備が私たちより充実しているとはいえ、こんなときにこの街へ入り屋外作業にあたってくれるのかと心強く同時に申し訳なく思った。道路が直されれば避難はスムーズに進むはずだが、それは彼らに危険な作業をしてもらうことと引き換えなのだった。
考え込まないよう気を付けながら、2人分の手荷物をまとめた。持って行けるのは本当に手放せないものだけ。通帳や印鑑などの貴重品と財布、携帯電話と電池式の充電器、ノートPC、マスク、ウェットティッシュ。別のバッグに1~2回分の着替えも用意したが、きっと処分することになるだろう。
まとめ終えた荷物はとても小さかった。そのことが事態の深刻さを象徴していて胸の辺りが重くなった。

原子力発電所の状況はこの日も悪いほうへ進んでいった。建屋が爆発したという1号機は燃料の現在位置が不明、今度は3号機が今にも・・・という状況だった。
地震は12日の午前にはやや間遠になり始めていたものが、前日1号機建屋が爆発した後に再び増えていた。震源も海ではなく発電所近くの陸地というのが増えつつあった。そして揺れ方が変質していた。小学生のころ、同級生が足元に爆竹を投げてきたことがあった。火を消そうと踏みつけた爆竹は靴底の向こうで爆ぜ続けた。あの時足裏に感じた感覚と、この揺れは酷似していた。バチバチぶちぶちと爆ぜるような衝撃に混じって小刻みな直下の縦揺れ。とても近かった。酷くて長かった本震よりもこちらの揺れのほうが、私は怖ろしかった。