日別アーカイブ: 2019年3月22日

8年前(9)14日

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14日朝。
原子力発電所では前日から、消防車での注水作業が始められていた。確認したがやはり放水ではなく注水である。知識のない私には当時、地震による損傷が確認できないところに注水しても水が漏れていかないと何故考えるのか、膨大な熱量の物体に対してどの程度意味があるのかが理解できず、消防隊員を無駄に危険に晒さないで、と酷く胸が痛んだ。みんな避難すればそんなことしなくていい、もう少し安全に配慮して対応してほしい、そう祈っていた。2019年現在で俯瞰すると、あの作業はやらなくてはいけなかったのだろう。平常時の基準で計ったら100%論理的判断とは言えないかもしれない。それでも、あの非常事態で、私達と同じように(あるいはそれ以上に)関係者もショックを受けた状態で事態を何とか収めようとしたのだと今は思う。「当事者」だったのだから。彼らもまた、祈るような気持ちだったのかもしれない。
夫を送り出さなければならない時間が来た。前日は車中だったが、14日は完全に屋外で19時まで作業にあたる予定だという。笑顔を作ることはもうできず、無事に帰ってと言葉にするのが精一杯だった。

震災から4日目、非常モードで凌ぐにもそろそろ限界のはずだ。情報から少し距離を置こうと決めて、その日の午前中は大きな余震以外は情報を見ないことにした。
部屋中をあちこち点検すると内壁材と思われる小さな欠片がところどころ落ちていた。余震が起きても妙な軋み音が聞こえることは無かったが、やはり相当な負荷がかかっていたのだ。いつまで耐えてくれるだろうか。地震はいつになったら収まるのだろう。誰にも答えられないのだった。
食器棚は11日にガムテープでがっちり封印したままになっていたが、こちらは手のつけようがなかった。割れた食器を安全にゴミに出せるようにするための、蓋の付いた缶容器や破れない梱包材が足りなかったのだ。
11時40分過ぎに午前の作業を終わりにして、PCに向かった。
3号機が爆発していた。

考える間もなく夫に電話したが、混乱から完全に立ち直っていない回線事情でこの時に繋がるはずもなかった。災害時は電話よりメールというアドバイスを思い出し、焦って打ち間違えながら「すぐに建物の中に入って」とだけ送った。
液晶画面に表示されたのは「データセンターに蓄積」のお知らせ。絶望した。届かない。今すぐ届けてほしいのに。今でなければ間に合わないのに。祈っても焦っても、届かないものは届かないのだった。
爆発が起きたのは11時頃、40分の間に夫のほうから連絡は入っていなかった。夫は無事なのか、具合が悪くなって屋外で倒れてしまったりしていないか、知る手段は断たれていた。

爆発の映像をもう1度見るのは苦しいことだった。それでも、細分漏らさぬようにしっかりと見直した。爆発の力がどちらの方向へ解放されたか。煙はどの方角に流れたか。
煙を見て、気が付いて気象情報を調べた。発電所から夫の現在地へ、風向きは微妙だった。風の強さから時間の猶予はどれくらいあったか考えた。爆発直後に情報が伝わっていれば屋内に退避できているかもしれない。
夫の様子が分からないまま刻一刻と時間が過ぎていった。爆発時3号機周辺で注水作業をしていた人たちが負傷していた。慰められるような情報は皆無だった。次第に心が凍り付いていくのを感じながら、私は機械のように情報を求め続けてネットを彷徨った。
夫は予定より少し早く夕方に帰宅した。昼間に泣き尽くしたと思っていたのに夫の無事な姿に涙が止まらなかった。