月別アーカイブ: 2019年7月

器である身体の話(2)

Reading Time: < 1 minute


 前回「身体は、私にとっては魂よりもずっと謎が深い。」と始めのほうに綴ったのだけど、本当に・・・! 力量もわきまえず身体について述べてみようなんて馬鹿なことをしたものだと、床をのたうち回りたい気分です。まあサイトの成り立ちの観点からは狙い通り(このサイトのURLはnaked-spirit、意訳でむきだしの魂)なので気を取り直していきます。それにしてもこのテーマ、今回でちゃんと終われるかしら…。


 まず、前回の(1)を読み直してみたのですが、最後の辺りで力尽きて茶飲み話みたいになってしまってごめんなさい。「成長期を過ぎたら身体は老いるばかり、努力して維持するのがせいぜいだと思う?そんなことないかもしれないよ?」と伝えたかったのです。専門家でもないのに安易に希望を振りまくつもりはないのですが、数年後数十年後になってみなければわからないということもきっとありますよ。新しい方法や技術が確立されるとかね。だからこれを読んでくれているあなたが今、身体のことで(他のことでも)何か問題を抱えていても思い詰めないで、ゆったり構えられる状態へと自分を導いてあげてください。


 さて今回は、身体についてほとんど話せることがないので脳の話をして、さっさと次回「意識」の話へ繋げてしまいたいと思います。詳しくないくせに脳に興味津々で、科学ニュースの関連する記事や本を読んだりする程度、知識と呼べるほどのものはありません。きっと今回も茶飲み話ですからね、ええ。以下、お読みになるかたはご覚悟くださいませ。

 そうだなあ…もう10数年前のことです。国内外で様々な「違い」による争いが絶えなくて、ちょっとニュースを見るのがしんどい時期がありました。それでも克己心とか使命感のようなものを感じて頑張ってニュースに向き合い続けて。ある日プツッと堪忍袋の緒が切れた。こういう場面で勇敢なる者の役を押し付けられるのはいつも夫、この時もそうでした。私「ねえこの人たちもこっちのニュースの人たちも、いつまで争ってるつもりかな」夫「どうなんだろうね(興味ない)」私「どうしようもないと割り切って歩み寄ろうって気にはなれないものかな」夫「なれないから今の状態なわけで(興味ない)」私「どうしようもないならせめて違いに目を向けるのをやめればいいと思わない?」夫「そう出来てたら平和な世界だねー(棒読み)」厭世の観を強めた私の中に強い思いがゆっくり立ち上ってきました。分断を叫び続ける人たちに、自分たちの団体ばかりに意識が向いて周りとは別になりたがる人たちに、会話に興味のない夫にも。私「もうさあ、いっそみんな地球人てことにしたら良くない?」夫「ハイー??!?」下がった気分の自分がとても真剣だったのは食事時のアルコールのせいだったと思いたい。私「みんなが意識を自分は地球人てシフトしていけば、人種も民族も国も地域も宗教も超えて一緒。地球人同士、争うのはやめておこうかってならない?」視線を向けると夫は本当に頭を抱えていました。
  この会話が問題になったのはしばらく後のことでした。時の日本の首相が突然「私達はみな地球市民です」的な発言をしたのです。私「この前の会話覚えてる?ウチ、洒落じゃなく盗聴されてるっ??」夫「無い無い、偶然だよ(呆れ)」パニックを起こしかけていた自分を落ち着かせながら私は何か思い出しかけて、でも思い出せないと感じていました。
 さらに時は流れてそれから4~5年経ったころでした。ラジオで昭和の懐かしい名曲特集をしていたので聴いていたら。流れてきたのですよ、まさかの答えが。(ジャスラックさんとの正しいおつきあいの仕方を事前に調べていなかった!今日のところは歌詞が載せられないです悪しからず。)透明感と生命力に溢れたしなやかな強さを秘めた歌声がとても魅力的な日本の女性歌手が、「ふるさと?地球よ」という内容の歌詞が出てくる歌を歌っていたのです。だいたい1980年ごろ? 当時、歌詞も曲も歌声も「すごく未来っぽい」と胸を躍らせながら聴いていたものでした。

 謎は解けました。1980年頃に聴いた歌を脳は記憶していた。2000年代に自分でみんな地球人と言った時も首相の発言を聞いた時も意識の表層に呼び出すことはできなかったけれど、私の地球人発言の下地にはその記憶が影響を与えたことは間違いない。そして2010年代にその歌と再会したことですべて繋がって、個人的珍事にようやく幕が下りたのでした。
 脳って本当に不思議です。だからこそ興味が尽きません。


器である身体の話(1)

Reading Time: < 1 minute


 前回「できるかな…」と言いつつ魂についての投稿をしたので、今回と少なくとも次回は身体と精神について綴らなければと肩に力が入ってしまっているlawbaです、こんばんは。
 魂についての投稿をしたので綴らなければ。何故なら「魂」「身体」「意識」揃って1人の人間を形成しているからです。どれかひとつだけを突然ひょいっと説明されても読み手は「ちょっとよくわからなかった」と思って終わりだものね。今回は「魂の器である身体」について頑張って綴ってみます。


 身体は、私にとっては魂よりもずっと謎が深い。昨日より一層「で、できるかな…??!」と不安にかられます。
 そうだなあ・・・。身体。多くのかたが耳にした経験がありそうな「体を鍛えれば心も鍛えられる!」。あれは100%ではないけれど真実の一端に触れています。より精確に言うと「(体を鍛えることで)守備範囲を広げて、心をいたずらに乱さなくて済むようにしよう」ですよね。
 ものすごく遠回りしてそこへ辿り着いた話にしてみましょうか。


 単なる有機物の塊に過ぎないものが、何故冷蔵庫に入れておかなくても悪くならないのか(むしろ冷蔵庫に入れるほうが無事では済まないわけですが)、不思議に思ったことありますか? 私は3~4歳のころ、「どうして?なぜ?」と周りの大人を困らせるあの時期に質問した記憶があります。答えてくれた人は「生きているから」ととてもシンプルで偽りのない言葉を返してくれました。
 幼児期より知恵がついた数年後に整理してみて「生きて(生気が巡って)いるから」身体はフレッシュな状態を保てるという意味だと思い当たりました。次によくわからなかったのは「生気」です。生き生きと充実しているさまや元気な様子を指して「生気にあふれる」と使われたりしているという知識はあったけど、その言葉の実態を自分はまったく分かっていないのだと理解したときはショックでした。生気って何だ・・・?

 身体のことが相変わらず解明できないうえに解らないものを増やしてしまった…。身体というのはなんて厄介なんだろう。人間というのはなんて生きにくいのだろう。

 それでも「気」という言葉を頼りに気功や更に宗教について学び始めたのですが、ちょうどこの頃日本の社会では宗教の事件が相次いで起こりました。身体について理解することはとても重要だったけど、私は鍵となる「気」について調べることをやめました。「危うきに近寄らず」は庶民にとっても有用な教えです。


 まさかの事態で答えに辿り着いたのは3年前、2016年。
 足の大怪我をしてしまった私は家事もできず、痛みから意識を逸らしたくて回復に効果的な食事についてあれこれ考えていました。足の親指はひどく傷ついて爪が剥がれていました。血を止めたり雑菌から守るためには血小板とか白血球、細胞の修復に必要なものを運ぶには赤血球。爪の成分はたんぱく質。血の成分て詳しく言うと何だったっけ。
 起きられるようになってすぐ調べなおしました。成分、働き、作られる器官。年を取って食事の量も減ってきた私が効率よく怪我を治すために最適な食事は。
 そうして一時的に高たんぱく質低炭水化物のメニューを試すことになったのですが、2ヶ月くらいからはっきりと変化が表れました。怪我は治っておらずまだ痛みもあるのに、なんだか心がとても元気だったのです。これは生気が巡っている状態では・・・? 予感を胸に、手元に残してあった食事の記録を検めて確信しました。適量の結論はこれからだが私にはもっとたんぱく質が必要。貧血の疑いで鉄サプリメントを服用したこともあったけど解決しなかったのはたんぱく質が不足していたせいだったのかもしれない、と。
 たんぱく質多めに切り替えて初めて迎えた冬、私は生まれて初めて「寒さに負けない」という体験をしました。子どもの頃よく聞かされた「体を鍛えれば寒さなんて感じない!」という言葉は私にとってはずっと嘘の根性論だったのに、確かに寒さを感じていても大丈夫でいられる温度の範囲が広くなっていたのです。「信じられない!だって私もうすぐ50歳だよ?」となんだか笑ってしまいました。
 もうひとつ、身体を鍛えようと試みては効果があらわれないループから抜け出しました。ただの肉はつくのに筋肉として育っていかない感じだったのが、ちゃんと力が伝えられるように変化してきたこと。幼稚園のころから「立てるし歩いたり走ったりできなくもないけど股関節からさきの感覚がちゃんとつながっていない感じ」と訴えていたのに解決されなかったのが、齢50に差し掛かって初めてつながった感触を得たこと。子どもの頃からずっと歩いているふりをしていた。私はそれを解っていたけれど、周りの大人にわかってもらうように伝えることができなかった。つらい記憶も、人並みに歩く感覚を掴めるようになった今はもうただの過去の記録。
 身体に感覚が通ったので最近は全体的に疲れにくくなりました。脊髄の感触も掴めるようになって、頭のてっぺんから足の裏までピンと立つことも今や苦行では無くなりました。脚に力がついていくのがはっきり分かるのでステッパー運動も楽しい。エクササイズに身体が対応できている。こんな日が来るなんて。

 足の怪我は1年近くで完治しましたが、食事のほうは現在も高たんぱく質低~中炭水化物くらいで調整しています。標準からは外れるけれど、各々の体質に合っている食事ならそれでいい。


 生命とは本当に不思議でとても素敵です。生き続けて生気を巡らせれば、老い始めた身体でも回復ばかりか過去には阻害されていた成長を果たす可能性もほんの少しは残されているのです。身体も、臓器も、細胞も、脳も。身体に必要なのは素材として適切な栄養と、無理しないを守ったエクササイズ。
 ここに至るまで、思考ルートでこんなに(50年弱)時間がかかってしまいました。たんぱく質が幼い頃から足りていれば身体ルートを辿ってもっと早くから魂の器である身体を強化できたのかなと・・・その思考に水や光を与えるのはやめておきましょう、悪いものしか出てこない。
 部活動も「基礎体力部」とかあったらいいよね。「全国大会で優勝!」みたいなのは目指さない子達が各自の体力に応じて維持・向上を図るような。分析力に着目して数学部的と押し通して文化部枠、どうかな、…って話が脱線しているし、今日はここまで。

 もう少し話してみたいことがあるので、次回も身体の話をしようと思います。


魂の行き着く処の話

Reading Time: < 1 minute


 日本でも世界でも、ビビリの私が心配性を発動してしまう程度には世の中がざわついているので、今日は昔読んだお話を元に、魂について頑張って綴ってみようと思います。私にできるかな…。


 昭和の昔(S50年代くらい)。濫読期に読破した本の中に、世界各地の神話や伝承をまとめた全集がありまして。そのうちのインド編だったでしょうか、人間の魂が死後に行き着く処について次のように書かれていました。

  人間は死を迎えるとその肉体を地上に残し、魂が空へと昇っていく。
  空のずっと上のほうには気の川がありその浄水にすすがれた魂は生前の記憶を失って、
 生まれ変わりを待つ。

 錆びついた記憶に拠るとだいたいこんな感じだったと思うのですが、他の地域の伝承も混ざっているかも・・・? というか、死後については世界各地の伝承に似通った部分が見られますよね。機会があったらひと通り読み直してみたい。
 死後の魂(と精神)は生前の記憶を失う。そのことは遺された者には少し寂しく感じられるかもしれないけれど、死者にとっては必要な慈悲だろうなという感想を抱いたことを覚えています。


 さて、死者の魂がすすがれる気の川から少し下へ離れたところには生者のための川もあります。
 疲れ、倦み、疑い、苦しみ、悲しみ、怒り、憤り、憎しみ。社会で、学校で、家庭で、しんどすぎるマイナスの感情に圧し潰されそうになった時、人は自動的に辿り着くのだと思います。生き抜くため、予防的にここへ来るのです。
 プラスの感情が昂じて辿り着く人もいるでしょう。「どうして?」と思うかもしれませんが、プラスの感情も強くなりすぎると明るい狂気に至るので、予防的調整のために訪れます。強すぎる薬は毒になることもあるからと言ったほうが合っているでしょうか?
 大抵は眠っているときに。そして稀には緊急避難で起きたまま。
 少し強い風が頬に心地よいこの場所で気の川に浸かり、澱を流し、生者の身には強くなり過ぎた感情を鎮める。ついでに潤いも補給して、癒された生者の魂は自分の肉体へ帰ります。
 その生命を生ききるために。


 「神話や伝承はただのお話だから」。そう考えるかたもいらっしゃるだろうし、私もそう思う部分に行き当たることはありました。ただ、伝承などが生きるための知恵を伝え続けてきたことは事実で、時にはそれが世界の真理にまで言及した部分もあるかな、と。昔の人も今の人も、生きていると心を強く揺さぶられる出来事に遭遇したりするという点は同じですね。
 世界は再建のためもうすぐ終(しま)われようとしているかもしれない。逆に一段上へと進化して継続できるかもしれない。そんな不安定な時代を生きている現状で、その負担をいっときでも和らげることが叶うなら。神話や伝承に込められた先人の優しさを借りることはその手段になり得ると私は思います。
 精神の力を上手に養って、自律的能動的に生きていこうよ。