九州北部、特に佐賀県の水害の様子を、その地元新聞紙などのサイトで拝見しました。言葉を失います。夏場の水害は特に衛生面の心配もありますし、1日も早い復旧を望んでいらっしゃることと思います。
予報によると暑さも雨もまだ続きそうで、地元のかたがた、復旧作業の援助のために入られた方々の心身の疲労がとても心配です。
まずはご自身の心身の安全を。そして周りを見る余力がある場合は、他のかたの心身の安全にも配慮してあげてください。
皆様が日常を取り戻すことができますよう、心よりお祈りいたします。
月別アーカイブ: 2019年8月
2019年8月17~24日
買い物グループ1
牛もも肉20 鶏胸肉19 卵10個 油揚27
牛カルビ肉22 豚挽肉21 とうふ絹29
牛薄切り肉26 豚ヒレ肉25 鶏もも肉26 ほっけ切り身26 卵10個 ちくわ29
買い物グループ2
南瓜 ほうれん草 マッシュルーム 貝割れ大根 西瓜 パイナップル バナナ
トマト 茄子 サラダ野菜
さつま芋 ミニトマト 茄子 ぶなしめじ ブロッコリー いちじく
主な献立と主な材料
牛の黒酢煮込み 牛もも肉 りんご ヨーグルト 塩 人参 玉葱 ブロス 黒酢
鶏とパイナップル炒め 鶏胸肉 塩 小麦粉 西瓜の白いところ パイナップル 生姜
ポークソテー 豚ヒレ肉 ブロッコリー ハッシュドポテト
ポパイオムレツ 卵 ほうれん草 マッシュルーム 貝割れ大根 トマトペースト
麻婆豆腐 豚挽肉 生姜 とうふ絹 ブロス みりん 味噌 辣油 五香粉 山椒
焼き肉 牛カルビ 茄子 マッシュルーム
無花果と生ハム 無花果 生ハム レモン
サラダ トマト キャベツ コーン 豆
ツナとトマトのサラダ ツナ トマト 貝割れ大根
ほうれん草のめかぶ和え ボイルほうれん草 めかぶ
湯葉 湯葉 梅肉
じゃが芋の味噌汁 じゃが芋 わかめ ふのり 麦茶
西瓜のスープ 西瓜の白いところ 人参 コンソメ 生姜 りんご酢
西瓜の味噌汁 西瓜の白いところ 油揚 湯葉 ほうれん草
サンドイッチ アーモンドバター バナナ 純ココア
天津飯 かに玉ソース 卵 塩豆
西瓜の練乳掛け 西瓜 練乳 岩塩 黒胡椒粒
8月に思う
8月は物思う月。
顧みると幼い頃からずっと繰り返してきた。まあ私は8月に限らずいつでも雑多に考え事をしているのだが、それは物事を俯瞰するための土壌を手入れしているようなものだ。いわば筋肉のトレーニングと同じである。
8月の考え事は、他の時期とは少し違う。6日、9日、15日。そしてあの年からは12日も。慰霊のための祈りは私にとって「戦争って何だ?」「他の道は無かったか?」「他の道を選べなかったか?」「繰り返さないためにどうするか?」を考えることと同義だ。
毎年同じことを、年ごとに違う取っ掛かりで考える。ある年は歴史を長めに振り返った。ある年は世界の社会の仕組みについて考えた。ある年は価値観や道徳心の育て方について考えた。
戦争や事故の犠牲となった人を思って「安らかに」と願い、現在の社会、世界の未来の在り方を考える。過去と同じスタート地点から以前とは違う考え方に辿り着くこともある。ミクロな視点ではあるが、そんなことをずっと続けている。
「幼い頃のいつから?」と思い出そうとしたことがあったが辿れたのは4歳かせいぜい3歳まで。テレビで中継していた平和式典を見た時の「せんそう、ってなんだろう?」という疑問が始まりだったのだろうと思う。
父母は戦争を語れる年代ではなく、戦争を実体験として聞かせてくれる祖父母や伯父伯母もいなかった。このため、戦争について私が知り得たのは本や新聞やテレビといった媒体によるある程度整えられた体裁のもの。つまり戦争についての私的な情報がほぼ無い状態で公的な情報だけは揃えられるという極端な状態だった。この状態が私を「考える」という行動に向かわせた。「戦争とは?」と自らが考えることによって内的な空洞を埋め、均衡を得ようとしたのだ。
均衡は放っておくとまた失われてしまう。社会や世界の情勢は変わるし、私自身も成長したり劣化したりする。平和を願うこと。均衡を保つこと。戦場に迷い込んだ野生動物のような子供時代を送った私にとって、ニュースを見て考えることや内省することが習い性となったのは自然かつ必然だった。
とはいっても、大層なことを考えてきたわけではない。
アンテナを張りつつ流されずに自分の頭で考えること。
相手が在るときには相手も人間だとしっかりと思うこと。
3つの視点(自分と相手と第3者、現在と過去と未来、前進と後退と待機、良い方向と悪い方向と変わらない方向)を常に意識すること。
世界は人間のためだけに在るのではないと頭に置いておくこと。
知らないことや理解できないこと、受け容れがたいことなんて、何歳になっても世の中にたくさんあること。
それでも、どんなに時間がかかってもいつか理解できるように努め続けること。
受け容れられないことから距離を置くのは現実的合理的対処であること。
好き嫌いで判断しないこと。
赦すこと、慈しむこと。
いろいろあるけれど、たぶん、幸運にも育つ過程でまともな家庭教育を受けることができた人なら授かりものとして身に付いていそうなことばかりだ。そういう環境には生まれつかなかったけれど、私もまた違った形の幸運に恵まれたのだと感謝している。本を読み、社会に学び、他の人たちより時間はかかっても、これらの考え方に至ることはできたのだから。
最後はだいたい毎年こんな風に締めくくって、その年の8月の思考を閉じる。これは私にとって(少し時期遅れだが)「思考の虫干し」のようなものなのかもしれない、と最近は捉えている。
今年の夏も気候が厳しく、世の中はその熱に煽られるように落ち着かない。そのことがとても気がかりで、なのに一方で厭世的になってしまう。いくつもの虫の知らせがありながら客観性を持たせて論理的に伝えることができなくて、自分がもどかしく情けないからだ。
揺るがぬものは、他所様の子を戦争に送る選択はしたくないとの思い。わが子やわが孫ならその思いは一層強いだろうと想像する。戦争も社会の混乱も、そういう理由でお断りだ。
わたしにできることはあまりにも小さくて少ない。実効性について考え出したら日本海溝より深く深く落ち込んで、助けの手を差し伸べられても立ち直れないだろう。だから、ネットの辺境に得たこのサイトで祈りと自戒を込めて言葉を紡ぐ。
考えて、と。
思ったり感じたりしたことについて、「自分は何故そう思った?何故そう感じた?」と常に問い続けてほしい。理由に思い当ったら、更にもう一段階奥へ「本当にそうだろうか?」と自分に深く問いかけてほしいと思う。そして「相手はどう考えるか?」「本当にそうだろうか?」も忘れないでほしい。可能なら、相手と話ができる関係になることが理想だ。真に話ができる関係を総ての人と築くことはできないが。
他者の考えというのは実際のところ、直接そして正しく問答が成立してさえもその一部を窺い知ることしかできないものである。けれど近年は、自分の側から見た相手像を正解と祀り上げてしまう姿勢を糺さないケースが増えているように見えて、自戒もしているしとても心配している。
数は多くないけれどこの文章を読んでくださる方々とともに、偏りのない目線で地に足の着いた思考を重ねていけたらと心から願っています。
どうか明日も世界がここに在り続けますように。