Reading Time: < 1 minute
2019年の3分の2が終わろうとしているんですね。早いものです。
振り返るには少し早いですが、今年はいろいろなことが起こりすぎて心身ともに堪えています。毎年8月のお盆過ぎは気候による疲労と恒例の8月のもの思いによるエネルギーの消耗が極まって、体調を崩したりオカルトめいた事象に遭遇したりといったことが個人的に起きやすい時期です。ただ今年は、あやふやな表現で申し訳ないですが、疲労が例年より重圧に感じられます。
天災も人災もなんだか箍(:たが)が外れてしまったみたいに見えて。
うまく言い表せないことというのはまだ理解が不足している段階なので、(自分の未熟さから)話す時機に至っていないということ。
その理屈は了解できているのだけど、世の中を見ていると心配で。心配で…、非力非才に甘んじた自分に本当に腹が立ちます。自分の辿ってきた環境を振り返って、客観的にもあれ以上は自分が壊れてしまっただろうと今でも思う。現在の何者でもない自分に一定の納得をしている、それでも現在の世の中に目を向けると、過去の自分にもっと何かできることがあったのではないかと振り返り考えずにはいられないのです(これはきっと、生きている限り続く)。
だから期が熟していないことまで、何とか伝えられないかともがく。8月に思うの後段の繰り返しになりますが、深海に潜ることになってもいい方はお読みください。
世の中の混乱について、個人的推測に過ぎませんが、「自分の人生においては自分が主役」と「自己中心的」の区別が上手くいっていない人が少し増えている可能性を考えています。第一には自分がそうなっていないかと常に懸念しているという状態で、他者に対しても怒っているわけではないですよ。逆に、そこまで辿り着いたことを肯定する立ち位置です。
…私自身、父母のもとから物理的に離れるまで誰かや何かに従うしかない日々でした。自分で選んでいい環境は最初こそ嬉しかったものの、程無く(1時間も経たないうちに)、自由に伴う責任の重さや他者と折り合いをつけることの難しさと大切さに「こりゃ大変だ…!」と気づいてしまいました。
少し脱線気味になります。普通の家庭で育った方には伝わりにくいと思うのですが、父母が親の役割を果たしていない家ではルールが歪んでいたり存在していなかったりします。親の範疇のことも子供に押し付けられて、認識がぐちゃぐちゃに壊されていきます。そもそも大人であるはずの父母の頭の中がぐちゃぐちゃなのでしょう。
当たり前のことについて本当の意味で正しく学べるのは、彼らから離れてからです。心の距離は一部を残して大半は遠くに避難させることもできる。でもやはり、物理的に接触を絶たないと引きずられて学びを害される。成長を許されず自身が被害者でありながら加害側に染まっていくことと闘う日々がどれほどの地獄か。
戻ります。
100%の理解をもぎ取ろうとして書いているのではありません。「人の道を外れない」という言葉があります。普通の家庭でまともな親御さんのもとで育ったかたの目には、「人の道」は広く平坦な道、坂があっても苦にならないものとして映るでしょう。そうでない者や成長段階で何らかの支障があった人にとっては、同じ「人の道」が初めのうちは狭く急峻な崖際の道ということもあるのです。リアルの道、例えば国道の起点から終点までを想像してみてください。街の中、町外れ、山道、海沿い、橋、同じ1本の道が様々な表情を見せてくれます。
「人の道」という言葉に沿って国道に例えましたが、川のほうが想像しやすいかもしれません。歪んだ場所に在った人はまだ水源近くの山の中、川と呼ぶにはまだ頼りない流れやいっそ伏流水辺りから始まるのです。勢いがあっても滝だったり、始まって間もない川の旅は激しいものです。対して普通の家庭で育ったかたは子どものうちから、平地にある中流ぐらいまで進んできた状態にあります。ご先祖様がしっかりした方達だった場合はいくつかの流れが合流して、運河の役割を担えるようなゆったりと安定した大きな川になっているでしょう。
そういった違いが「人の道」の違いです。流れを一から形にしていくことも、運河の役割や治水も、それぞれに苦難があり喜びや愉しみもあります。どちらも揺るぎなく「人の道」です。違いがあっても同じ、ということが見事に成立しています。
段落の初めに書いた「自分の人生においては自分が主役」と「自己中心的」の区別が上手くいっていない人というのは、水源近くの流れのように、いろいろ模索している段階にいるのかなと思います。中高生のころ同級生の同性と話していて「社会において自分は裏方」「自分の人生においても自分は裏方」という人が多いことに驚きと不安を覚えました。「人形の家」という小説が頭に浮かんで、でもそれより深くは話せなかった。その時代よりは先に進んでいるが故の、現在の世の中の混乱なのでしょうか。
仮定の上に仮定を重ねる形になってしまいますが。個人的推測が合っていた場合、いま私達は人間的に成熟する、ひいては社会を成熟させる段階に直面しているのでしょう。ただ、理想的な成熟には適度に余裕のある状態が必要なのに、社会は歪みを正さないまま反対の方向に振り切れようとしている。そう見えてしまって心配なのです。心配性の私の認識が行き過ぎただけならその方がむしろいいと思うくらいには、人間とその社会をまだ好きなので。
先へ進むことは大切だけど、もっと大切なことはたくさんある。だからお願いです、ちょっと立ち止まって考えてみてほしい。苦しみや悲しみで追い詰めても、そこから生み出されるのは成熟した苦しみだけではないでしょうか。花は開かず実りも無いのでは?
立ち止まるには勇気が必要な時もありますよね。でも、しっかり休んで休養も栄養も充分に足りた状態で、目的、現状、方法、ひとつずつ整理してみませんか。