日別アーカイブ: 2019年9月8日

レ・ミゼラブル

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 19世紀フランス。ヴィクトル・ユーゴーの作品。


 レ・ミゼラブルは私の読書史において紀元にあたる作品だ。
 小学生の終盤4~6年生のときに、 アーシュラ・ル=グウィンやローズマリー・サトクリフを読んだ。ゲドのシリーズはそれまで多くの「物語」に親しんだので難しめながら読みこなせたが、サトクリフはそうはいかなかった。1冊だけ深く感じ入った作品があったが、他は大人の世界を垣間見るようで小学生には(とりわけ普通より体験の乏しい小学生の私には)とても難しいと感じられたのだ。私と同じ小学生でサトクリフを「いいよね」と言える子どもがいるとしたら、既に大人の世界に混ざって活動している特別な子どもかなあなどと考えていた。中学生になったら子どもでも大人の図書館を利用することになっていた。大人の図書館は幼いころ母に付いて入ったことがあるが、びっくりハウスみたいだった。あらゆるものがあるけれど子ども向けの本みたいにこちらの手を取ってくれることはない。むしろ大人向けでそういう本は危険だ。自分の年齢や能力に見合っているという意味で安全な本を、見つけることができるのか。とても不安だった。
 そんな状況で大人図書館で最初に目を留めたのがレ・ミゼラブルだった(写真を探したところ河出書房のカラー版世界文学全集だったようだ)。私は観察した。子ども向け文学全集との違いは挿画が無いこと?佇まい(装丁)は大人びているけれどやはり文学全集、どこか似た雰囲気を持っていた。子ども向けのを読んだこともあったので「これならきっと安全だろう」と考えた。


 初めて読んだ子ども向けではない本は衝撃的だった。文章に込められた情報量に圧倒されて、読みながら疲れて寝入ってしまう「寝落ち」を初めて体験したのもこの本だ。
 ジャン・ヴァルジャンとジャヴェールで罪と罰そして司教で赦しを、コゼット、マリユスとテナルディエ夫妻で清浄と汚濁を、母としての生き方を全うするファンティーヌと女としての生き方を全うするエポニーヌ、政府の高官たちと反政府組織で社会の腐敗と正義を。いくつもの2項構造を仕掛けたうえで、敢えて片方に傾きすぎない。人の数だけ善悪があり、罪と罰があり、大義があり、生き方がある。そう描かれていた(と当時の私は読み取った)。人間の多様な在り方が肯定されていた。「レ・ミゼラブルには人生の全てが詰まっている!」。人生経験の乏しい中学1年生がそう感激したくらい、そこには私が欲していた「人間について」がひろく語り込まれていた。

 思えば、レ・ミゼラブル前の読書はエモーショナルだった。感情を自由に遊ばせて自我を癒すため、次の本を読むまで生き永らえるエネルギーを補充するため。レ・ミゼラブル後の読書の大半は論理的に思考する癖をつけるための訓練となった。
 理に適っているか、その理が本当に正しいのか(ひいては理に適っているか否かを判断する自分の基準は本当に正しいのか)。理解しがたく見えても理に適っているならば否定せずにおくことを、作品から学んだからだ。結果や答えを得るまでに何年も時には何十年もかける場合があることも学んだ。現状を正しく捉えることができて自分を過大に評価することが無ければ、逆境にあっても心が折れないことも。だから自分を腐らせず他者をむやみに決めつけず生きていけるような、そういう人間になろうと思った。能動的に生きたいと願った。
 もちろん理解したことをすぐに実践できるほど優れてはおらず、私はむしろ同年代の中でも情けないほどに未熟な人間だった。私の世界はずっと世間の普通とはかけ離れていた。子どもの頃より状況は悪化していたから、サポートも無い状態で新しい考え方を自分に染み込ませていくことはとても大変なことだった。それでも、感情的ではなく論理的に思考することは、泉の水に手を浸した時のように私の心を鎮め潤した。
 論理的方法でなら自分の中に秩序を育むことができる。私はそこに希望を見出した。これからの読書はそのために。私の中で何かが定まった。

 ミュージカルのキャッチコピーだったかな。
 「レ・ミゼラブル。そこにすべてがある。」