日別アーカイブ: 2019年12月4日

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 こんばんは、lawbaです。久しぶりの投稿、随分と間を空けてしまったので少し緊張しています。初めてリハビリを受ける日の朝みたいな気分です。

 読み返してみたのですが、前回の投稿は心がとても乱れたまま綴ったことが文に表れていて、ごめんなさい、嫌な思いをさせてしまったかもしれません。乱文を投稿したきり音沙汰なしだったことについて説明するべきか、キーボードに向かっている今も迷っています。
 何事もなかったようにスルーでいいような気もするけれど、このサイトはlawbaが日々つまづいたり転んだりして考えてきたことを書き記して、読んでくださった方が自分なりのものの考え方を構築するときに反面教師としてほんの少しお役に立てたら、と始めた場所です。であるなら、私が転んだときはそれを記録したほうがいいのか。しかしあまりプライベートなことをネット上に晒すのはいかがなものか。ハンドルネームの「lawba」と実社会で生活している「私」の線引きはどこにするかについて、考えや覚悟が足りていなかったのだと痛感しています。

 「私」に起きたこと。とても近しい人を亡くしました。
 近しい人、という表現がするりと出てきたことに自分でも驚いています。その人、父とはずっと関係を絶っていたので。ただ、父の魂は死に際がきれいでした。とてもとてもきれいでした。
 父と夢で言葉を交わした数日後に、それが病床からの別れの挨拶だったと知った時には、もう、間に合いませんでした。苦しんでいる魂で溢れている病院という場所が私はとても苦手だけれど、魂を送って寄越すくらいなら「見舞いに来い」と言ってほしかった。父は元気な姿だけを覚えていてほしかったのだとしても。

 以下しばらく、心の柔らかい方は読まずに飛ばしてくださいね。
 父は失言などで、生後数時間を始まりに私を何度も捨てた人だったけど。3歳になってすぐの記憶が、父の存在が私の命を繋いだことを教えてくれています。リストラに遭った父が昼間も家に居たことで、ご飯を朝と昼と夜に食べられたこと。「たべものってこんなにいっぱい(種類が)あったんだ…」と知ったこと。父が仕事を得た後、私の健康状態は再び深刻に悪化したこと。あの数ヶ月が無かったら、私という存在は消滅していたと思います。それらを漠然と感じ取っていたから、父には幼いころはとても懐いていました。
 それから、4歳か5歳の夏。母がこれ見よがしに父を苛め、私に向かって「同じことをするならあんたも仲間にしてあげる」と言ってきたことがあって。私は母に言い返しました。「どうしてそんなこというの?おかあさんのやっていることはおかしいし、それをわたしにもやれっていうのもへん。」「おとうさんもおかあさんになにかいって…」と目を向けると、毛を逆立てた野生動物のようにうずくまり母に背を向けた父が目を真っ赤にしていて。ショックを受けた私はどもりながら、のどを絞るようにして必死に言葉を繰り出しました。「おおとうさんっ!?しっかりして!このいえのだいこくばしらはおとうさんだよ、おかあさんがへんなこといってたらおとうさんがなおしてあげてよ。ないてるばあいじゃないよ。おとうさんがないてたら・・・」最後には思考が追い付かなくなって、「わたし、こまる。どうしたらいいかわからなくなる。」とやっと言い終えたのを憶えています。子どもの前だったから大きな声で母を叱りつけて私を怖がらせないように配慮して言い返さないのか、その頃の父がいつも言い返せずにいたのかはわからないが、その事件後は母に普通に言い返す姿を見るようになりました。
 その後の私のほうは、幼い女の子の魂の私が死んで男の子や新しい女の子の魂の私に入れ替わったり反抗期を迎えたりと、荒ぶる魂による不安定な日々に突入していきました。中学生の頃、私達きょうだいを前に「お母さんと結婚したくなかった、家族に逆らえなかった。」と父が泣きかけたことがあったのですが、その目を見た途端に脳がピリリと緊張したため「親が子どもに泣きつくのはやめて。そういう風に私達に甘えないで。」と私は席を立ってしまいました。父に冷たかったと思うけど、父の親にはなれない、なってはいけないと強く感じていたのです。以来、父と私の間で会話が成立することはほとんど無くなりました。父は戸惑っていたようでした。
 他に憶えているのは、仕事が大変そうだったこと。家の中も。そのため、どうでもいいと投げやりな様子を見せることもありました。けど、ときどき。「父とは?親とは?」について自問していたようでした。その姿勢は、誇張や捏造を織り交ぜて喧伝しては承認欲求を満たしていた母のそれとは少し違っていました。母は「自分は親に向いていない」という開き直りもしくは悟りを得ることで、自分のために生き努力することに時間を使う生き方を学び始めたようでしたが、父は逆で「父とは?親とは?」という問題をずっと心のどこかに抱えていたのでしょう。
 父は自身も父親をほとんど知らずに育った人でした。太平洋戦争の頃の生まれで、その辺りの世代には戦禍や貧困で家族との別れを迎えた人達がたくさんいたのです、とても悲しいことに。親を知らないから親にならなくていいということはないけれど、大変だったことは確かでしょう。「人に学べる、本や映画やTVだってあった時代でしょ?」とは言っても、知識と実際の差はやはり大きいですから。百聞は一見に如かずという言葉のとおりで、何かを学ぶためにはその場に居合わせて同じように呼吸を重ねるのが一番良い方法なのです。それが親達がゴソッと減ってしまった世代がある。当事者として親の呼吸を学ぶ機会を奪われた子どもが大人になり、呼吸を想定や他所の親子の見様見真似で補いながらなんとか親をやっている。そういう親子が増えた社会が世代を重ねて行き着いたのが現在の状況、ということなのです。彼らを至らない親と断罪することはフェアではない気がします。わからないなりに悩んだりもがいたり時には休んだりまた頑張ったりして、命を繋いできてくれたから私達が存在している。理想的な親という物差しで測れば不完全かもしれませんが、彼らの試行錯誤は尊いと私は思います。
 虐待や少子化は広い意味で戦禍です。戦争はずっと昔に終わったけれど、戦後はまだ終わっていない。近年ようやく戦後を終わらせようという動きが始まったところのように見えます。戦後が本当の意味で終わる頃には、日本の国民も未来を志向できるようになって少子化は解決すると思います。いつ終われるか、そこまでどう繋ぐかが問題なわけですが。

 さて、父は人生の最期に私を訪ねてきてくれました。かつて「父の親にはならない、子で在り続ける」と突っぱねた娘に、「父とは?親とは?」について自分が得た答えを示すために。
 夢路を辿ってきた父はこちらの近況を尋ね、「お父さんは…?」と尋ね返す私を制して「じゃあ行ってくるな」と笑いかけて、とてもいい笑顔のまま去っていきました。「待って、どこへ?」という言葉は届かなくて。相変わらず父と私ではぎこちない会話にしかならないのだなと寂しく感じたところで目が覚めて、それが父との最後でした。夏が終わる頃から水中でもないのに溺れる感じが続いたのも、何通りかある鉄板の回復メソッドを幾度試しても穴が開いた風船みたいにエネルギーが消えていく感じがしたのも。父でした。
 父が辿り着いた答えは、「子ども達の理想とは違っていてもこれが自分、お前たちの親なのだ」と肯定して自分らしい姿を見せること。苦しかっただろうに、そんな様子は微塵も感じさせずに笑って見せてくれました。

 私は父の人生をほとんど知りません。話が出来ていた頃も、父は自分のこととなるといつも法螺話で煙に巻いて、本当のところを話してくれることがなかったからです。仕方がないから私は、一世一代の大見得を切って見せてくれた父の笑顔をずっと憶えておくことにします。
 新しい魂グループに参加するときは、素晴らしい両親の元で安心して満ち足りた子ども時代を送れるよう祈ります。
 それまでのひととき、どうか安らかな眠りを。おやすみなさい、お父さん。