文章を綴る気になれないまま、いたずらに時が過ぎていきます。
父のことが存外こたえていて、…こんな風に毎日、目元を押さえることになるとは予測できませんでした。比べるようなものではないけれど、長い長い戦いをようやく終えた感じだった母の時とは違う。母が亡くなった時の話は、、オカルト的にはやや興のある話かもしれません。真夏の怪談としてなら、いつかお話しできるかな。いつか…、母への愛情を込めて話せる日が来たらね。
父が亡くなってから世界は一変しました(実際に変わったのは世界ではなく、たぶん私の心のほうなのでしょう)。なんとも曖昧な表現で申し訳ないですが、思い出す度つらかった記憶を呼び出しても、父に対しては今は脳がギューッとならずに済むのです。信頼できずにいたけれど信じたいと願い続けていた頃の記憶、「ただ大好きだった」という気持ち。父が私の記憶の中から苦しい感情の部分を少し持って行ってくれた、なんて信じるには、私も少し年を取りすぎたけど。
掃われたように、あるいは祓われたように、澄んだ穏やかな気持ちでいます。
「親」という言葉を父と母に対して使わないと決めてから長い時を過ごしましたが、父は…親になろうとずっと悩み続けてくれた父は、間に合ったのだと思います。あ、伝わりにくい文になってしまった。
ずーっと昔、5~6歳ごろ、父が将棋の駒の動かし方を教えてくれたことがありました。駒によっては相手の陣へ攻め込むと「成る」ことができて、「歩兵」が「王」の次に強い「金」に成ったり、将に当たる「角行」や「飛車」が「龍」に成ったりします。つまり、父は人生の最後に私の陣に辿り着いて「父親」に「成った」のだと思います。父の魂の軌跡は、最後の数手で一転、見事に勝利した棋譜のようで、とてもきれいだと私は思うのです。
戦術については子ども相手に分かりやすく教えることは難しかったらしく、私も自ら学ぶまでの興味を持たなかったので、父の将棋の相手にはなれなかったけれど。もう一度一緒に、将棋盤に向き合いたかったな。
さて。
ああ、やはり。読み返してみたら、今日も父を思っているだけの内容になってしまいました。ごめんなさい。
このサイトは言うなれば私の庭ではあるけれど、おもてに面した場所ですものね。インターネットという公共の場に合うよう心を少しずつ調整しているのですが、まだ少し時間が必要みたいです。年内にまた投稿できるよう、頑張らずに頑張りますね。
次の日曜はもう冬至ですね。早いなあ。北半球では1年で最も陽が短い日、心に灯をかかげて健やかに冬を越えましょうね。南半球では1年で最も陽が長い日、冬至ではなく夏至のほうですね。夏が(冬も?)苦手な私としては「陽射しに敗けずに頑張って」とは言いたくない。これでどうでしょう、「陽射しとは戦わない、ビタミンDの分だけ日にあたった後は避けて避けて避けまくろう!」。他人事みたいな言い方になってしまったけれど、したたかに夏を乗り越えてくださいね。
では。See you again.
タイトルの「成親」は成駒に因んで私が勝手に考えた造語です。読み方は「せいしん」若しくは「なりおや」が妥当と思うのですが、自分で言うのもなんですが、ひねりもセンスも無いですね。
辞書や翻訳では「なりちか(人名)」のみの扱いだと思うので、書き添えました。意味は文章から拾ってください。