日別アーカイブ: 2020年3月10日

春待つ日々の思いわずらい

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 前回の投稿のタイトルに波紋という言葉を採用したことを少し後悔しています。その次の日あたりからニュースなどで「波紋」の文字をやたらと目にしてしまったので。絶対気のせいだけど、バタフライエフェクトの羽ばたきの1回を知らぬ間に自分も担ってしまったような、少し苦い気分です。気を付けなければいけませんね。
 波紋という言葉はニュースで見かけるときは概ね不穏な空気感を醸すもの。でも元の意味の水の動きの波紋、私は好きです。ひとつきりの動き、複数が相互に作用した時の動き。空気の流れを可視化するのはいろいろ仕掛けが必要ですが水の動きは目で捉えられるので、子どものころは単純に興味を惹かれて水紋をよく観察していました。今思うと、物事を考える下地を養うのに役立ったのかもしれません。


 3月の第1週の日本は混乱が大きくて、休校の影響や更にその影響などで社会の空気が張り詰めてしまっていてとても心配しました。解決したわけではなく現在進行中で大変な思いをしている人が大勢いて。私に言えるのは、それらは社会のひずみで、新型コロナウィルスによって「発生」した問題ではなく元々そこに在った問題が「顕在化」したのだということくらいです。平常時に少しずつ皆で考えて実現可能性を探り、社会を少しずつメンテナンスしていく。それが近年の災害続きの日本では皆少し疲れてしまっていて、うまく回らなかったかなという気がします。

 この新型コロナの災禍を乗り越えたら、現場に余白のある社会を作れるといい。そうでない社会は非常時に身動きが取れないのだと、またしても痛感しました。
 皆で考えよう。考えることを、政治家や官僚だけに任せているやり方では限界なのだと思います。彼らは彼らなりに余白を設けようとしてきた部分もあるように思うのですが、人間は万能ではありませんよね。想定だけですべての人すべての状況にピタリとフィットする政策を出せるなら、世界から苦しみはとうに消え去っているはずで。だから、現場に余白のある社会を欲するときは、誰よりもまず現場の人間が考えてみなくては。何故なら、当事者の声が不足したままでは「かりそめの現状把握」を反映した計画しか立てようがないからです。それでは痒いところに手は届かない、問題は解決しないのです。

 それから今もって得体の知れないモノ扱いの新型コロナウィルスだけど、闇雲に怖がるのはもうやめにしましょう。感情はいったん脇へ置いておいて、情報は事実だけ拾う。確定的な情報、不確実だけど注目しておきたい情報など、整理する。正しい情報をしっかり整理すると自然と見えてきます、今の自分に出来ること、今は出来ないこと、どうしようもないこと。この整理がつけば、少なくとも怖さや焦燥感は少しは遠のくと思いますよ。替わりに、諦めから無気力に陥らないよう自分との闘いをする羽目に陥るけれど、大人なら自分の御し方の3つや4つ備えているでしょ? ならば、ウィルスよりは自分のほうがまだ相手にしやすい、というものです。


 今日は言葉が硬めで、読んでくださるかたに響きにくい文章になっている気がします。新型コロナウィルスを心配するあまり「コロナ鬱」を発症する人が増えている、という記事を見かけました。私もそれか!
 コロナ禍は世界中で猛威を振るっていて社会も経済も混乱してヒステリックだし、身近なところではマスク転売屋(憶測)に絡まれたり、紙製品が消えたままのお店の棚を見てはこの地に住む人々が震災と水害によってどれほど深く傷ついているかを思って心が軋んだりと、それなりに多難な日々ではありました。
 心が温かく幸せになることもちゃんとありましたよ。陽ざしがあたたかく明るくなってきたこと、例年より早く木蘭が咲きそうで蕾から柔らかな色味の白を覗かせていること。そういえばWHOから「新型コロナが夏になれば収束するというのは過剰な期待」というコメントが発表されていましたが。それでも春と秋は夏と冬に比べて体への負担が小さいわけで、気候がよい分だけ感染のペースや重症化が抑制されたらいいなという期待も捨てていません(そうならなくても失望に囚われない覚悟とともに)。
 そんなわけで、何も変わらないかもしれなくても。北半球の温帯に住む身としては、今はやっぱり春を待つ。せめてひと時の安らぎが多くの人にもたらされますように。