月別アーカイブ: 2020年8月

いつものごはん が食べたかった

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 6月末に「次回は食べ物の話を…」と書いておきながら延び延びになっていました。有言「不」実行ではいけませんね。今宵こそは食のカテゴリの話をしましょう。

 台所に復帰して2ヶ月ちょっと。作って食べて作って食べて疲れて休んでまた作って食べて、起きて活動している時間のほとんどを食べることに費やしている気がします。
 怪我ののち初めて台所に戻った時のことは一生忘れないでしょう。チキンピラフを作ろうと調理台の前に立ったのですが、手順がすんなり出てこなくてハッとしたのです。コロナに劣らぬほどの高熱を出したので「もしや脳に損傷が…!?」と一瞬冷やりとしましたが。1ヶ月以上も調理しなかったのは結婚後初めてのこと。その結果、私の脳の中で調理に関する知識や記憶が、PCの長期間アクセスしないファイルのように奥へしまわれてしまった、そんな感じでした。知識や記憶を取り出す回路を再び繋げればいいのだな。この作業をするときはその先のあの作業に気を配るなど、ひとつひとつの手順を思い出しながら調理するのは懐かしくて楽しくて嬉しかった。それと、脳が再び目ざめていく感触がとても新鮮で興味深かったです。
 そういえば怪我について何の説明もしていませんでした。読み返してみたら「お腹の中」の「阿呆な」怪我とだけお伝えしていて、どうでもいいのに微かに気になる微妙な言い方だったかもしれません。読んでくださった方をモヤッとさせてしまっていたらごめんなさい。
 簡単に説明すると、ストレスから普段食べない(食べられない)かなり辛いカレーを食べる >消化器官系が脱水症状を起こすも気付かず >うずくまった状態から勢いよく立ち上がろうとして >グキッと体の中から音が聞こえた!? >腸腰筋が肉離れ >炎症・高熱 という事態だったようです(たぶん)。半世紀も生きてきてこれですよ、阿呆でしょう……。40度越えの高熱は炎症のせいだけではなく自分への「なんじゃこりゃあぁぁ!」もあったと思う…。自分を駄目な人間と感じていて辛いというかた、こんな50歳もいるので安心して肩の力を抜いてね。今のあなたでいい。もしも駄目な自分が客観的に事実でも、なりたい自分に向かって少しずつ歩いていけばいい。寄り道や後戻り、休憩をするのもOKです。

 それで、と突然話題を戻すと、「復帰後どんな料理を食べたか」でしたね。相変わらず本題に辿り着くまで長くてごめんなさいね。ベッドに横たわったまま「台所に立てるかな立ちたいな」と思い始めた頃から、私の頭の中の「作って食べたいものリスト」はどんどん更新されてとても長くなりました。
 チキンピラフに始まって、里芋のそぼろあんかけ、梅にゅうめん、赤魚の煮付、トマトともやしの玉子炒め、豚とりんごの煮込み、ミートソーススパゲティ、薄味の野菜の煮物、鶏と野菜のスープ、肉じゃが、スパゲティナポリタン、モ・モ・モッツァレラ、イカとピーマンのバター炒め、味噌汁いろいろ、etc. 
 あれもこれも懐かしい食べたい作りたい!食欲に手を引かれるように復活して、四肢も体幹もすっかり鈍ってしまった身体でリストをひとつずつ消化しています。現在形です。食いしん坊の私のリストは本当に長くて、まだ終わらない。水害もあったし今年の梅雨は長く厳しかったので、食材の流通が例年と違っていますしね。流通と言えば、西瓜(の白いところ)の味噌汁がそろそろ季節だなあ。味噌汁はいつもは白系だけど、具が西瓜の時は嗅覚の導きで赤味噌を少し加えます。西瓜だけで勝負するのもいいし、大葉の千切りやとうふを合わせるのもいい。味や触感は冬瓜とほぼ同じで、赤みが少し残るように取ると目に楽しく自然な甘みがほんのり感じられるのも嬉しい。…夜中なのにお腹が
空いてしまったのでこの辺りで。

 日本の夏も本番を迎えました。毎年の熱中症に加えてコロナの感染拡大も気になるところ。身体の声を聞く、すなわち今の身体に必要なものが解るようになるためには、五感の働きが適切であることが大切です。運動や食事で五感を鋭くして、体を健やかに保ちたいものです。

エゴ

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 命が多く旅立って、世の中に悲しみや怒りが満ちている。触れた私のうちにも思いや考えが溢れる。こういう時はよく、夫に思考の整理の助力を願いたいと思ってしまうのだけど、仕事についている身には荷が重いらしい。無理もないことだ。

 水害や病や事故や、様々な理由で命は終わりを迎える。唐突でどんなに理不尽に感じられても、多くの死は摂理のうちにある。けれど、世界の歪みが大きくなると秩序が狂う。番狂わせで、まだ生きられたはずの命が消える。
7月の初め、片手で数えられる年齢の幼い命が放置され終わりを迎えた事件が報道された。まだ3歳だったという女の子がどうしようもなく憐れで。ニュースで見聞きしただけだが、加害者である母の言動は私の母とよく似ていて心がざわついた。自分の闇に呑まれた人。
 そもそもの話をするなら、子育てを戦いにしないことが大事。子どもを育てていて、大変でどうしようもなくて、それでも向こう側に行かないと頑張っている人だっている。自分との戦いになってしまったときに、負けずに頑張り続ける人と負けてしまった人を別けるものは何だろう。
 加害者である母自身も親の愛を受けずに育った、と機能不全家庭の連鎖を指摘する記事なども読んだ。だけど。「それが何?」って思う。どんな家庭で育ったにせよ、我が子を放置して殺した罪、我が子の未来を奪って自分の楽しみを選んだ罪は変わらない。一生をかけてでも理解してほしい。機能不全の親の元に生まれついた子どもだったけど立派に親をやっている人は、この事件、一際辛かっただろう。

 愛を求める間、人は苦しみ続ける。愛されたと感じた時の喜びが、そうではない時間を一層暗くするからだ。今回の事件の加害者はここで罠に嵌まってしまったのかなと思う。
 そうではない時間を喜びに変えるには、愛されるより自ら愛することだ。男女の間でも親子の間でも友人の間でもそれは同じ。愛する側に回った時、実感が薄れてきた心許ない時間を自ら満たす幸せを知る。そして程無く己の身勝手さも知ることになる。一見純粋に思える「愛を与えたら喜んでほしい」という素直な気持ちは、感謝されたいという欲かもしれないと。気持ちのやさしい人の中には、ここで愛を諦めてしまう人もいる。去ることこそ自分が示せる最後の愛、そういう選択も人生の道のひとつだろう。理解や共感を得られないかもしれないこの選択をできる人を私は肯定したい。奪うことと与えることの間で自分と戦い続ける人もいる。そういう人達はいつかその先に辿り着けることを祈る。
 その先とは、「身勝手にも感謝を奪い取りたいという醜悪な欲を抱えているかもしれない自分」を否定しない地点。自分とは人間とは一歩間違えば化け物になってしまうかもしれない危うい存在なのだ。相手と自分を危うい存在であると認め許したうえで、それでもやはり愛するという地点まで辿り着いた人の心は長い年月を経た樹木の内部のように穏やかだろう。
 化け物にならずに誰かを愛するには、相手ではなく自分の思考をコントロールするのが私の知る堅実な道のひとつだ。小難しく語っているけど実際は難しくない。例えば「笑顔を見せてほしい」と働きかけるときは「笑顔になってくれたらラッキー」ぐらいに願望を緩くしたり、笑顔が見れなかった場合に理由、相手の状況や自分の力量などを見直したり、というようなことだ。
 化け物にならないように自分を律する力は疲労、病気や怪我、加齢などで弱まってしまう。災害に遭って気持ちや生活が不安になることも自律の力を弱める原因と成り得る。だから瀬戸際に至るずっと前、何でもないうちに、思考や行動パターンに余白を組み込む癖をつけておくことはとても有効だと思う。余裕があれば相手の余白を守るという配慮も愛の形のひとつ。
 あと大事なこと。はめ込みや強制であなたの余白を壊そうとする人がいたら、兎にも角にも一旦その場から避難してね。相手が親でも迷わずに。余白を効かせた上手な逃れ方(のカモフラージュ)を、何でもないうちに考えておくといいかもしれないね。誤解だった時にはその余白を使って戻ればいいのだ。誤解ではなかったときは……。

 愛とか、日頃は口にしないけど。
 世界の歪みが大きくなっているようなので、ひとりひとりが自分の形と向き合ってみる時かもと感じたので言葉を連ねてみた。自分は思考型なのでそうしたが、フィーリングで掴める人の方が乗り越える力は高そうだ。
 きっとまた、朝起きて投稿したことを後悔して、恥ずかしさに転げ回るんだわ…。