命が多く旅立って、世の中に悲しみや怒りが満ちている。触れた私のうちにも思いや考えが溢れる。こういう時はよく、夫に思考の整理の助力を願いたいと思ってしまうのだけど、仕事についている身には荷が重いらしい。無理もないことだ。
水害や病や事故や、様々な理由で命は終わりを迎える。唐突でどんなに理不尽に感じられても、多くの死は摂理のうちにある。けれど、世界の歪みが大きくなると秩序が狂う。番狂わせで、まだ生きられたはずの命が消える。
7月の初め、片手で数えられる年齢の幼い命が放置され終わりを迎えた事件が報道された。まだ3歳だったという女の子がどうしようもなく憐れで。ニュースで見聞きしただけだが、加害者である母の言動は私の母とよく似ていて心がざわついた。自分の闇に呑まれた人。
そもそもの話をするなら、子育てを戦いにしないことが大事。子どもを育てていて、大変でどうしようもなくて、それでも向こう側に行かないと頑張っている人だっている。自分との戦いになってしまったときに、負けずに頑張り続ける人と負けてしまった人を別けるものは何だろう。
加害者である母自身も親の愛を受けずに育った、と機能不全家庭の連鎖を指摘する記事なども読んだ。だけど。「それが何?」って思う。どんな家庭で育ったにせよ、我が子を放置して殺した罪、我が子の未来を奪って自分の楽しみを選んだ罪は変わらない。一生をかけてでも理解してほしい。機能不全の親の元に生まれついた子どもだったけど立派に親をやっている人は、この事件、一際辛かっただろう。
愛を求める間、人は苦しみ続ける。愛されたと感じた時の喜びが、そうではない時間を一層暗くするからだ。今回の事件の加害者はここで罠に嵌まってしまったのかなと思う。
そうではない時間を喜びに変えるには、愛されるより自ら愛することだ。男女の間でも親子の間でも友人の間でもそれは同じ。愛する側に回った時、実感が薄れてきた心許ない時間を自ら満たす幸せを知る。そして程無く己の身勝手さも知ることになる。一見純粋に思える「愛を与えたら喜んでほしい」という素直な気持ちは、感謝されたいという欲かもしれないと。気持ちのやさしい人の中には、ここで愛を諦めてしまう人もいる。去ることこそ自分が示せる最後の愛、そういう選択も人生の道のひとつだろう。理解や共感を得られないかもしれないこの選択をできる人を私は肯定したい。奪うことと与えることの間で自分と戦い続ける人もいる。そういう人達はいつかその先に辿り着けることを祈る。
その先とは、「身勝手にも感謝を奪い取りたいという醜悪な欲を抱えているかもしれない自分」を否定しない地点。自分とは人間とは一歩間違えば化け物になってしまうかもしれない危うい存在なのだ。相手と自分を危うい存在であると認め許したうえで、それでもやはり愛するという地点まで辿り着いた人の心は長い年月を経た樹木の内部のように穏やかだろう。
化け物にならずに誰かを愛するには、相手ではなく自分の思考をコントロールするのが私の知る堅実な道のひとつだ。小難しく語っているけど実際は難しくない。例えば「笑顔を見せてほしい」と働きかけるときは「笑顔になってくれたらラッキー」ぐらいに願望を緩くしたり、笑顔が見れなかった場合に理由、相手の状況や自分の力量などを見直したり、というようなことだ。
化け物にならないように自分を律する力は疲労、病気や怪我、加齢などで弱まってしまう。災害に遭って気持ちや生活が不安になることも自律の力を弱める原因と成り得る。だから瀬戸際に至るずっと前、何でもないうちに、思考や行動パターンに余白を組み込む癖をつけておくことはとても有効だと思う。余裕があれば相手の余白を守るという配慮も愛の形のひとつ。
あと大事なこと。はめ込みや強制であなたの余白を壊そうとする人がいたら、兎にも角にも一旦その場から避難してね。相手が親でも迷わずに。余白を効かせた上手な逃れ方(のカモフラージュ)を、何でもないうちに考えておくといいかもしれないね。誤解だった時にはその余白を使って戻ればいいのだ。誤解ではなかったときは……。
愛とか、日頃は口にしないけど。
世界の歪みが大きくなっているようなので、ひとりひとりが自分の形と向き合ってみる時かもと感じたので言葉を連ねてみた。自分は思考型なのでそうしたが、フィーリングで掴める人の方が乗り越える力は高そうだ。
きっとまた、朝起きて投稿したことを後悔して、恥ずかしさに転げ回るんだわ…。