こんばんは。外がもう氷点下で…ウィンドウラジエーターを素手で触っても、ぬるい!けど、これを使わないと窓が結露で凍ってもっと部屋が冷えるので、じゅうぶん助かっています。1月から電力会社経由で電気代が公的に補助されることになっていますね。私はとても有難いなーと思っています。特別復興所得税を、増税する防衛費の弾除けみたいに使おうとしている点(個人の印象です。復興計画の中身を見ていくと言い分として100%否ではないが、感覚的には「えっ流れ弾!??」という…)のように考え方が合わないと思うところもあるけれど。国家繁栄の基礎のひとつは国民の生活がしっかり立てられる国家の仕組み作りにある、と考えてくださる方々には感謝しています。
さて。このサイトを「何かに導かれるように」「何かに急かされるように」開設して以来、拙い文章を綴り続けることはリハビリを重ねているような時間の積み重ねでした。ちなみに「何か」というのが内なるカミのことであり、その向こうに理(:ことわり)がある、ということはずっと読んでくださっている方にはきっと解ってしまっていたでしょうね。「間に合わなくなる、急いで」とずっと伝わってくる感じだったのです、もちろん彼ら(内なるカミは遺伝子やミトコンドリアや菌類、理は物理が揺るぎなくその法則の下に置かれる仕組みそのものだと思っているので、「彼ら」という呼び方は少し合っていないかもしれない)は言葉なんて使わないのだけど。
彼らは意味の無いことはしないと知っていたから何とか投稿を続けて、2019年の7~8月。私は彼らから、3つのとても深刻で重要なのに残酷なまでに曖昧な知らせを受け取りました。それらは、世間にそのまま晒すようなことはとても出来ない内容であり、しかも一部分が読み解けないままでした。サイトを設けて私が自分の言葉で文章を綴ることと、それらの知らせ。この2つが重なるところに彼らが必要を認めた何かがある。それは理の発動という形ではなく人によって為されなくてはならない何かなのだ、と共鳴した私の魂は感じ取っていました。私に読み解けた複数のメッセージのうちのひとつは、「言葉を玩ぶ少数によって歪みが生じている、それを人間自らが正すように」という部分でした。そのために、サイトを開設して他者へ向ける言葉を訓練させた?彼らの信号をキャッチしてしまう人間の数は少ないから、私なんかの錆びついた文章力でも賭けるしかない、と?まさか。自分の正気を疑って自己点検を繰り返し、妻であるという理由で点を甘くしたりはしない夫に「ごめん!」「お願い!」と拝み倒して「どう思う?」と無茶振りしてみたり。
幾たび角度を変えて考えてみてもほとんど何も解らないままで、それでも注意深く言葉を紡ぎあげたときにはもう8月が終わろうとしていました。・・・私にはこれが精いっぱい、これで良かった?尋ねても応える言葉は無くて。預かってしまった知らせを時々取り出して考え直してみる、そんな日々が続きました。
今日までの間というのは、改めて書くまでもなく日本でも世界でも多くの出来事がありました。そうして今年の7月5日、それは白昼に突然起こりました。とても大きく強いエネルギーの塊のようなそれが放たれて、たぶん世界に拡がった。触れた瞬間に『万物は流転せよ』と鐘の音が伝えていた。
万物は流転「せよ」。何故そのように強い語調に転じることになったのか…。けれどその後を鑑みるに、よく言われてきたように世界が終わりを迎えるのではなく、ひとつの時代が終わるのだという理解で合っているように思います。それはつまり、新しい時代が始まるということ。
時々忘れてしまうけど、始まりというのは希望だけが溢れているのではなくて、それまでとの別れもあったり先々への不安もあったり、いろいろな面を併せ持っているものでしたね。闇だけに包まれて終わるのではなく、光だけに祝福されて始まるのでもない。そうして観ると、新しい時代はもう始まっているのかもしれません。力強く生きて、幸せになろう。 >For ALL.
夏頃はあんなに賑やかにしていた魂のかけらの子達が今はとても静かです(before:御霊(みたま)の道)。くっ付いてしまった私の魂から自然な形で離れていくために花開き結実するという方法を見つけ出し、春に備えて眠りについたようですね。私も貯めたエネルギーを放出したので、そろそろ冬の広葉樹のように静かに過ごす時を迎えます。理(:ことわり)と私の内なるカミの目論見は結局うまくいったのかな?成否は分からないけれど今年でひとまずのピークは越えたようだし、しばらくはゆっくり養生したいです。
追記 上記、数日前に書き始めた文章で、文中に組み込めなかったことをひとつ。
22日に配信されていた毎日新聞のニュース、宗教法人法に基づく質問権の行使について、主要な宗教法人にアンケートをおこなったという記事についてです。こういうアンケート、とてもありがたいです。
夏から続いている旧統一教会世界平和統一家庭連合の一連の流れは、宗教界にとって激震でしたよね。信仰心は人のとても深いところから生じるもの。オウム真理教が無かったら大学の哲学科に進んで、人の信仰心と宗教について探求したかったというだけの私が、偉そうなことを言うものではありませんが…。ひとつの生命として存在することを歓び、自然のうちのひとつであることに歓喜してその恵みを讃える。「そのように在る」ことへの喜びや感謝が信仰心のもと、こんなことで潰えるものではないと思うのです。だからこの大きな波の後、宗教としても社会的団体としても正しく健やかなものが残っていくと思います。
「思う」を重ねて頼りない文になってしまいましたが、どうか世の中の信仰をお持ちの方々と宗教法人にはそのように在っていただけたら、と願っております。心を込めて。