器である身体の話(1)

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 前回「できるかな…」と言いつつ魂についての投稿をしたので、今回と少なくとも次回は身体と精神について綴らなければと肩に力が入ってしまっているlawbaです、こんばんは。
 魂についての投稿をしたので綴らなければ。何故なら「魂」「身体」「意識」揃って1人の人間を形成しているからです。どれかひとつだけを突然ひょいっと説明されても読み手は「ちょっとよくわからなかった」と思って終わりだものね。今回は「魂の器である身体」について頑張って綴ってみます。


 身体は、私にとっては魂よりもずっと謎が深い。昨日より一層「で、できるかな…??!」と不安にかられます。
 そうだなあ・・・。身体。多くのかたが耳にした経験がありそうな「体を鍛えれば心も鍛えられる!」。あれは100%ではないけれど真実の一端に触れています。より精確に言うと「(体を鍛えることで)守備範囲を広げて、心をいたずらに乱さなくて済むようにしよう」ですよね。
 ものすごく遠回りしてそこへ辿り着いた話にしてみましょうか。


 単なる有機物の塊に過ぎないものが、何故冷蔵庫に入れておかなくても悪くならないのか(むしろ冷蔵庫に入れるほうが無事では済まないわけですが)、不思議に思ったことありますか? 私は3~4歳のころ、「どうして?なぜ?」と周りの大人を困らせるあの時期に質問した記憶があります。答えてくれた人は「生きているから」ととてもシンプルで偽りのない言葉を返してくれました。
 幼児期より知恵がついた数年後に整理してみて「生きて(生気が巡って)いるから」身体はフレッシュな状態を保てるという意味だと思い当たりました。次によくわからなかったのは「生気」です。生き生きと充実しているさまや元気な様子を指して「生気にあふれる」と使われたりしているという知識はあったけど、その言葉の実態を自分はまったく分かっていないのだと理解したときはショックでした。生気って何だ・・・?

 身体のことが相変わらず解明できないうえに解らないものを増やしてしまった…。身体というのはなんて厄介なんだろう。人間というのはなんて生きにくいのだろう。

 それでも「気」という言葉を頼りに気功や更に宗教について学び始めたのですが、ちょうどこの頃日本の社会では宗教の事件が相次いで起こりました。身体について理解することはとても重要だったけど、私は鍵となる「気」について調べることをやめました。「危うきに近寄らず」は庶民にとっても有用な教えです。


 まさかの事態で答えに辿り着いたのは3年前、2016年。
 足の大怪我をしてしまった私は家事もできず、痛みから意識を逸らしたくて回復に効果的な食事についてあれこれ考えていました。足の親指はひどく傷ついて爪が剥がれていました。血を止めたり雑菌から守るためには血小板とか白血球、細胞の修復に必要なものを運ぶには赤血球。爪の成分はたんぱく質。血の成分て詳しく言うと何だったっけ。
 起きられるようになってすぐ調べなおしました。成分、働き、作られる器官。年を取って食事の量も減ってきた私が効率よく怪我を治すために最適な食事は。
 そうして一時的に高たんぱく質低炭水化物のメニューを試すことになったのですが、2ヶ月くらいからはっきりと変化が表れました。怪我は治っておらずまだ痛みもあるのに、なんだか心がとても元気だったのです。これは生気が巡っている状態では・・・? 予感を胸に、手元に残してあった食事の記録を検めて確信しました。適量の結論はこれからだが私にはもっとたんぱく質が必要。貧血の疑いで鉄サプリメントを服用したこともあったけど解決しなかったのはたんぱく質が不足していたせいだったのかもしれない、と。
 たんぱく質多めに切り替えて初めて迎えた冬、私は生まれて初めて「寒さに負けない」という体験をしました。子どもの頃よく聞かされた「体を鍛えれば寒さなんて感じない!」という言葉は私にとってはずっと嘘の根性論だったのに、確かに寒さを感じていても大丈夫でいられる温度の範囲が広くなっていたのです。「信じられない!だって私もうすぐ50歳だよ?」となんだか笑ってしまいました。
 もうひとつ、身体を鍛えようと試みては効果があらわれないループから抜け出しました。ただの肉はつくのに筋肉として育っていかない感じだったのが、ちゃんと力が伝えられるように変化してきたこと。幼稚園のころから「立てるし歩いたり走ったりできなくもないけど股関節からさきの感覚がちゃんとつながっていない感じ」と訴えていたのに解決されなかったのが、齢50に差し掛かって初めてつながった感触を得たこと。子どもの頃からずっと歩いているふりをしていた。私はそれを解っていたけれど、周りの大人にわかってもらうように伝えることができなかった。つらい記憶も、人並みに歩く感覚を掴めるようになった今はもうただの過去の記録。
 身体に感覚が通ったので最近は全体的に疲れにくくなりました。脊髄の感触も掴めるようになって、頭のてっぺんから足の裏までピンと立つことも今や苦行では無くなりました。脚に力がついていくのがはっきり分かるのでステッパー運動も楽しい。エクササイズに身体が対応できている。こんな日が来るなんて。

 足の怪我は1年近くで完治しましたが、食事のほうは現在も高たんぱく質低~中炭水化物くらいで調整しています。標準からは外れるけれど、各々の体質に合っている食事ならそれでいい。


 生命とは本当に不思議でとても素敵です。生き続けて生気を巡らせれば、老い始めた身体でも回復ばかりか過去には阻害されていた成長を果たす可能性もほんの少しは残されているのです。身体も、臓器も、細胞も、脳も。身体に必要なのは素材として適切な栄養と、無理しないを守ったエクササイズ。
 ここに至るまで、思考ルートでこんなに(50年弱)時間がかかってしまいました。たんぱく質が幼い頃から足りていれば身体ルートを辿ってもっと早くから魂の器である身体を強化できたのかなと・・・その思考に水や光を与えるのはやめておきましょう、悪いものしか出てこない。
 部活動も「基礎体力部」とかあったらいいよね。「全国大会で優勝!」みたいなのは目指さない子達が各自の体力に応じて維持・向上を図るような。分析力に着目して数学部的と押し通して文化部枠、どうかな、…って話が脱線しているし、今日はここまで。

 もう少し話してみたいことがあるので、次回も身体の話をしようと思います。