投稿者「lawba」のアーカイブ

2019年9月1~8日

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買い物グループ1

鶏もも挽肉05 豚挽肉05 鶏ささみ07
牛肩ロース肉09 豚もも肉10 卵10個


買い物グループ2

ディル レタス えのき パイナップル
ミニトマト 舞茸 サラダ野菜 ぶどう


主な献立と主な材料

豚角煮      豚ブロック肉 黒糖 しょう油 みりん 五香粉 辛子
挽肉とトマト煮  鶏もも挽肉 豚挽肉 人参 玉葱 トマト 大豆
マッシュルームリゾット   マッシュルーム 玉葱 バター 米 ブイヨン 粉チーズ
              黒胡椒粒 ディル
蒸し鶏      鶏ささみ トマト サラダ野菜 塩豆
天津飯      かに玉ソース 卵 塩豆 玄米ご飯
南瓜と小豆の煮物 南瓜 蒸し小豆 オリゴ糖
とうふサラダ   とうふ ミニトマト レタス ドレッシング


 

レ・ミゼラブル

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 19世紀フランス。ヴィクトル・ユーゴーの作品。


 レ・ミゼラブルは私の読書史において紀元にあたる作品だ。
 小学生の終盤4~6年生のときに、 アーシュラ・ル=グウィンやローズマリー・サトクリフを読んだ。ゲドのシリーズはそれまで多くの「物語」に親しんだので難しめながら読みこなせたが、サトクリフはそうはいかなかった。1冊だけ深く感じ入った作品があったが、他は大人の世界を垣間見るようで小学生には(とりわけ普通より体験の乏しい小学生の私には)とても難しいと感じられたのだ。私と同じ小学生でサトクリフを「いいよね」と言える子どもがいるとしたら、既に大人の世界に混ざって活動している特別な子どもかなあなどと考えていた。中学生になったら子どもでも大人の図書館を利用することになっていた。大人の図書館は幼いころ母に付いて入ったことがあるが、びっくりハウスみたいだった。あらゆるものがあるけれど子ども向けの本みたいにこちらの手を取ってくれることはない。むしろ大人向けでそういう本は危険だ。自分の年齢や能力に見合っているという意味で安全な本を、見つけることができるのか。とても不安だった。
 そんな状況で大人図書館で最初に目を留めたのがレ・ミゼラブルだった(写真を探したところ河出書房のカラー版世界文学全集だったようだ)。私は観察した。子ども向け文学全集との違いは挿画が無いこと?佇まい(装丁)は大人びているけれどやはり文学全集、どこか似た雰囲気を持っていた。子ども向けのを読んだこともあったので「これならきっと安全だろう」と考えた。


 初めて読んだ子ども向けではない本は衝撃的だった。文章に込められた情報量に圧倒されて、読みながら疲れて寝入ってしまう「寝落ち」を初めて体験したのもこの本だ。
 ジャン・ヴァルジャンとジャヴェールで罪と罰そして司教で赦しを、コゼット、マリユスとテナルディエ夫妻で清浄と汚濁を、母としての生き方を全うするファンティーヌと女としての生き方を全うするエポニーヌ、政府の高官たちと反政府組織で社会の腐敗と正義を。いくつもの2項構造を仕掛けたうえで、敢えて片方に傾きすぎない。人の数だけ善悪があり、罪と罰があり、大義があり、生き方がある。そう描かれていた(と当時の私は読み取った)。人間の多様な在り方が肯定されていた。「レ・ミゼラブルには人生の全てが詰まっている!」。人生経験の乏しい中学1年生がそう感激したくらい、そこには私が欲していた「人間について」がひろく語り込まれていた。

 思えば、レ・ミゼラブル前の読書はエモーショナルだった。感情を自由に遊ばせて自我を癒すため、次の本を読むまで生き永らえるエネルギーを補充するため。レ・ミゼラブル後の読書の大半は論理的に思考する癖をつけるための訓練となった。
 理に適っているか、その理が本当に正しいのか(ひいては理に適っているか否かを判断する自分の基準は本当に正しいのか)。理解しがたく見えても理に適っているならば否定せずにおくことを、作品から学んだからだ。結果や答えを得るまでに何年も時には何十年もかける場合があることも学んだ。現状を正しく捉えることができて自分を過大に評価することが無ければ、逆境にあっても心が折れないことも。だから自分を腐らせず他者をむやみに決めつけず生きていけるような、そういう人間になろうと思った。能動的に生きたいと願った。
 もちろん理解したことをすぐに実践できるほど優れてはおらず、私はむしろ同年代の中でも情けないほどに未熟な人間だった。私の世界はずっと世間の普通とはかけ離れていた。子どもの頃より状況は悪化していたから、サポートも無い状態で新しい考え方を自分に染み込ませていくことはとても大変なことだった。それでも、感情的ではなく論理的に思考することは、泉の水に手を浸した時のように私の心を鎮め潤した。
 論理的方法でなら自分の中に秩序を育むことができる。私はそこに希望を見出した。これからの読書はそのために。私の中で何かが定まった。

 ミュージカルのキャッチコピーだったかな。
 「レ・ミゼラブル。そこにすべてがある。」


今日のニュースに

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 生の感情を吐き出すことと、私がアドレスに掲げている naked-spirit むきだしの魂の意味するところは違う。だけど今日は虐待の裁判のニュースが辛すぎて、…ごめんなさい少しだけ吐き出します。

 どうか、簡単に手にできる満足感の中毒にならないでください。答えや満足感やそういったものを、簡単に手に入るものと定義しないでください。でっかくぶち上げた目標の、達成に至るまでの努力や工夫のひとつひとつ。そういうものにだって、充足感は得られるじゃないですか。
 安易に手に入る多幸感なんて安易に枯れてしまうものです。それもあっという間に。「すぐに無くなってしまった、でもすぐに手に入ったじゃない?」この思考パターンに支配された未来がどうなるか、想像できるでしょう?人間は、毎日とても満足な状態でいなければ不幸などということはありません(いつも幸せそうに見える人がいたとして、それは傍からはそう見えるというだけ、そう見える人の事情ではなくそう見ている人の目がそう見せているだけです。いつも幸せに見える人が本当にそうなら、その人は幸せの捉え方が上手なのでしょう)。
 それでも生きにくい世の中での暮らす毎日、小さな満足感に救われることもあるのは確かです。そういうときは対象を人にしないこと。たとえば身の回りの道具(鍋とか掃除機とか靴磨きセットとか)を毎日ひとつずつ丁寧に手入れすることで、そういった満足感は得られませんか?道具は保たれるうえに、初めは同じことを繰り返しているように感じられても着実に身についてスキルアップしていくもの。その成長はアバターではなくその人自身のものです。そういったことに達成感や充足感を求めてみませんか。

 「わかってる。
 それを重ねてきて自分のエネルギーがもう限界なんだ、だから人に求めるんだ。」

 そういう人もいるよね。でも人からエネルギーを得ようとするときに奪っては駄目。それは絶対に駄目です、相手のためにもあなたのためにも。人から奪うというのはすごく成果を得たように錯覚しやすいですよね、相対的に。しかし、「奪って得る」という意識を武器にした時からその人は業の奴隷になってしまいます。奴隷は成果を搾取される存在でしょう?だから満足できないのです。どんなに繰り返しても。どんなにエスカレートしても。
 限界で人からエネルギーをもらいたいときは決して奪い取ろうとしないこと。
 「他者から結果や評価を」もぎ取ろうとするから上手くいかないのです。他者に対してはその「過程」に目を向けたほうがお互い幸せです。相手が植物だったら。種を蒔いた時から今日まで「よく育ったなあ」と植物を讃え自分を褒めることはあっても、「笑顔を向けてくれない」と不快に思ったりはしないでしょう。相手が人間だというだけで何故、対応を変えるのでしょうか。

 巷間言われているように、虐待をする人は自身を大切にする方法を知らない、というのはあると思います。
 自分自身がギリギリと締め上げられていて苦しんでいる。苦しみから逃れたい、あるいは自分の状態を認識すらできないほど苦しい。そこに弱い者、その権利の全てを握れる弱者が現れて。虐げる。楽になる。でもすぐ苦しみでいっぱいになる。また転嫁する。また楽になる。中毒になる。
 蟻地獄のよう。

 もし虐待している人、してしまいそうな人が読んでいたら。

 終わりのない苦しみに自分をはめ込んで、誰かを引きずり込むなんてやめよう?その場所じゃ、誰も楽しくないし誰も幸せにならないって。
 虐待する人を蝕んでいる何か、誰か、本人による問題。苦しい状態を我慢するのは強さではありません。相手に配慮して問題を解決せずに自分が苦しみ続けるのは優しさではありません。子を便利な憂さ晴らしや言い訳の道具にするのは大人のすることではないよ。「弱いから」「バカだから」考えないで済ませられると?それって人間性が失われつつある、とても危険な状態だと思います。今すぐにその場所を離れるんだ!人間でいられる場所に自分を置くんだ。
 自分の責任において、自分を縛る問題を認識して、解決法を考えて。主体が自分であれば、解決法として誰かに相談したり頼ったりというのは肯定されていいと思います。

 どうか人間であることを思い出してください。人間であり続けることを諦めないで。

 今からこの投稿をupしたら、私もコップの茶渋を取る。私自身と、ついでで申し訳ないけど誰かの苦しみがそれで少しでも昇華されますように。


2022.08.31 この日、とある虐待事件が報道され亡き母を思い出して投稿しました。彼女に私の言葉は届かなかった。……いま生きている人は未来を選べます。どうか負けないで。