サイトへの投稿がようやく10件を超えようというところで、ふと気になった。
読んでくださる方たちに伝えたい内容を、私の文でちゃんと表現できているだろうか。
こんなことが気になったのは、例えば虐待の疑いのある子どもに本当の気持ちを話してほしいと願うとき、どんな言葉を選び、どんな声色、声の高さで、どんな表情、姿勢、眼差しで接したら心を開いてくれるだろうと考えてみたからだ。対面しているのであれば、全身全霊を以て「安心して」と伝えることも、反対に自分をできるだけ無に近づけて相手の言葉を待つことも(理論上は)可能だ。だが文章だけでそれができるだろうか。
同じ文章でも話し方ひとつで意味が真逆になることもある。話すスキルが封じられているなら、誤解を生まないよう慎重に文章を綴ること。そう思い定めたもののこれが難しくて。普段からぶれない思考を習慣づけようとする一方で、遊び(余白)の無い人間に他者の思いがわかるだろうか他者を受容できるだろうかと疑問に思ったり。つまりは、とても人間らしく揺らいでいる。
揺らぎなどと言うと個人的な内面の吐露に聞こえるが、これは普遍的なことでもあるのだ。揺らぎつつバランスをとること、それは生命の営みそのものだから。
日々、試行錯誤してみたり葛藤してみたり休憩してみたり、その中でバランスをとる方法は人それぞれ。多くの方法に触れて、備えてほしいと願う。
転んでもまた歩きだせるように。
投稿者「lawba」のアーカイブ
2019年2月9~16日
ピーマン 鶏とパイナップルの 鶏もも肉 コンソメ パイナップル 苺 スープ炒め ピーマン 生姜
鶏胸肉14 ごぼう チキンソテー ヨーグルト レモン スナップえんどう
牛角切り15 大根 牛の赤ワイン煮 牛角切り 蓮根 芽キャベツ おろし人参 塩鮭15 ぶなしめじ おろし生姜
ロールキャベツ14 芽キャベツ 鮭ホイル焼き 鮭 ぶなしめじ ピーマン 焼き紫蘇巻
ロールキャベツ ごぼう 人参 生姜 バター ワインビネガー 黒胡椒粒
2回分の小さな煮物 大根 長葱 牛すじ揚 生姜
キャロットラペ 人参 オリーブオイル レモン
ごぼうの梅煮 ごぼう 昆布 鰹だし 梅干し
ごぼうと油揚げの ごぼう オリーブオイル 鶏だし 油揚 山椒
山椒炒め
炒めきのこの味噌汁 舞茸 大根 蓮根 一味唐辛子 山椒
ツナ炒飯 ツナ缶 卵 カリフラワー 玄米ご飯 オクラ 鶏胸肉17 ベビーリーフ 黒胡椒粒 貝割れ大根
牛薄切り19 小松菜 チキングラタン 鶏胸肉 玉葱 ぶなしめじ ピーマン 餃子19 ごぼう マカロニ 牛乳 バター 小麦粉 チーズ
ひらす(魚)西京漬22 南瓜 焼き餃子
卵10個 ぶなしめじ ベビーリーフの ベビーリーフ 焼き南瓜 オリーブオイル たこボール(練り物)22 サラダ スライスアーモンド レモン 黒胡椒粒
油揚24
成人とは自分を治めている人のこと
前回は偏った話し方をしてしまった。もう少しかみ砕いた、思いやりある言葉を選べなかったかと反省している。ニュースを俯瞰していて、ヘイトや揚げ足取り、分断策が増えていると感じていたのでちょっと焦っていた。りっぱな老婆を目指しているのになんとも情けないことです。
うまく伝えられるといいのだけど。私は昔、小学校前くらいの頃、「自分で決める」ことが恐ろしくてたまらなかった。正しい行いや考え方を私に沁みこませようと身近に付き添ってくれる大人がいなかったから、怖ろしい嗤い方をする人たちに「バカだバカだ」と繰り返されていたから、「子どもでバカの私が何か決めるなんてあってはいけない」と心底おそれ戒めていた。選択を迫る人が現れたら憤りを覚えてしまうくらいに。
程無く、自分で決めさせてもらえないほうがもっと恐ろしいと気づいたが、気づくまでの「選択からの逃避期間」は悪い意味で楽だった。何もわからず恐がっているだけの自分を肯定できるのだから。それは本来幼い子どもにだけ赦されている「無知」という状態だ。その先に多くのことを知る将来が控えているから、恐がるだけの状態を赦されるのだ。大人が悪いことのために道具として便利に使っていいものではない。
前回は「それを忘れてしまったの?」と問いかけたかったのだ。忘れることだってある、思い出してみる?とそっと背を押したかった。そっとではなくバシーンと力強く押してしまった気がするので、ごめんなさい。
言われたことを鵜呑みにしないで、自分の目や耳などで感じて、自分の頭で考えて判断する。道具として使っていいのは「自分の思考力」のほう。自分に対して政治を行い、社会のためや善行のために長所短所をうまく使う。それが身につくことを成人すると言う。
20歳18歳というのは法的な分類に過ぎない。もっと年若くても、自分を律して行動を決めるしっかりした人はたくさんいる。増えてきた、とも感じている。頼もしく素晴らしいことだ。
このような変化を見ていると、中高生の頃に読んだインド系の哲学を思い出す。ヴィシュヌ(維持)の時が終わり、シヴァ(再生のための破壊)、そしてブラフマー(創造)へと移行しているのだと。激動の時代には、それを乗り越える器を持つ若い人たちが増える。それが天の采配、自然の摂理というものだ、と書かれていた。自分の死後よりも先の未来、そこに希望があることを願ってそんなことを思い出している。
哲学(宗教)は、子どもの頃に泣いて欲しても得られなかった当たり前で尊いもの、ためになる知恵を授けてくれた(哲学の前は物語だった)。西洋に始まり日本、中国、インド、古の時代と読み進んだが、全てに助けられた。だからこそ読書の果てに、目の前に存在している人との対話を大切に思えるところに辿り着けた。
いつか本の話もしたいと思う。
読みやすい文章をなかなか綴れないけど、気が向いたらどうぞ読みに来てください。