響きあうもの

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 おはようございます。暑さと台風の心配で4時に目が覚めてしまいました。皆様は健やかな睡眠を取れているといいな。そのまま眠りなおすこともできたのですが、ネットで台風情報のチェックをした時にニュースの見出しに放っておけないものを見てしまいまして。読んで、感じて考えて、今こうしてPCに向かっています。

 そのニュースは、オリンピック競泳のアメリカ代表シモーヌ・マヌエル選手が「試合で負けた直後のインタビューを強制されるべきではない」とTwitterに投稿したというもので、私が読ませてもらったのはAFPの記事をもとにした時事通信社の日本語版です。
 マヌエル選手の投稿したそのままのニュアンスを知りたくてTwitterも拝見しました。英語ムズカシイデス…。でも今ここ(公共の場所)に言葉を紡ぐにあたって、ニュースでは伝えきれない単語のひとつひとつまで目にしておきたかったのです。6月の投稿でアスリートの大坂なおみ選手のインタビューの件に触れさせていただきましたけど、大坂選手が(私に)起こした波は、マヌエル選手も以前から投げかけていたとてもセンシティブな問題。彼女たち自身がその波に飲み込まれてしまわないように、そして全体として良い方向に流れていけるように願っています。
 
 それで、説明を省いて結論を言ってしまうと
人間も進化しているなーって思いませんか!!?」。

 早起きでハイになっているわけではなくて、本当に。アスリートに対する試合後のインタビューの歴史を調べたのだけど、試合直後の、というのはやはりテレビなどの放送と密接に関わっているという指摘は的を射ているように思えます。私は今回のことで調べてみるまで、1世紀くらい続いている伝統なのかと思っていました。
 情報の鮮度という概念は基準のひとつとして確立しています。が、問題になっている「試合直後の」「敗戦側の選手」へのインタビューにおいて情報の鮮度が必要かという問いには、視聴者の1人という立ち位置の私はNOですね。勝った側であっても、すぐに話せる場合も身だしなみを整えたい場合もあるはずで、どちらの立場にせよ、話せる時話したい聞いてほしい時期に至ったら話せばいい、そう思います。
 どれくらいの時間が適切かというのは、試合の意味や内容、選手個人の内面に抱えるものなど、多岐にかかわるのでなかなか決められないでしょう。その日のうちに話せる場合もあればシーズンが終わってから振り返るという場合もある。引退してから今だから話せる解るという選手や試合もあると思うのですよ。本人が今は話せないというならそれは話せないのです。
 他者に明かそうが明かすまいが、選手はどんな試合も必ず何度も思い起こす。分析する。彼らのアスリート人生にそれらが反映されていくのを私達は年数をかけて見届ける。自らを曝け出すことでファンの支持を得てモチベーションに昇華する選手もいれば、黙々とストイックな積み重ねを大事にする選手もいる。様々なタイプの選手がいる、それでいいじゃないですか。
 
 ただひとつだけ忘れないでほしいかなと選手の皆さんにお願いしたいことがあります。それは、各競技の協会等が会見を設定している場合は、マヌエル選手の言葉に出てくる「一部のメディア」とは違う思惑もあるかもしれない、という目線です。私が言うのも大概余計なお節介ですけど。
 かもしれない、であって確定ではないという前提で捉えていただきたいのですが。多少無理を強いることになっても「公人」として振舞わねばならない会見の場所に身を置くことで心を制御してほしい、自分と向き合う時間も大切だが、意志を以て自らの意識を外の世界に切り替えることも身に着けてほしいという、口幅ったいけど親心のようなものが協会主導の場合の会見の歴史の始まりにはあったのかもしれないね?と。(私の言葉、イソップの蝙蝠みたいに見えるでしょうね、ごめんなさいね。そのように考えてみることもできるなぁ、って思ってしまったのです。私は自分も含め人間全般に甘い。)
 資料でも残っていれば推し量ることもできそうですが、議事録などにそういう機微は書き込まれないのが普通ですし、…どうしたらこの絡まった糸をほどけるのだろう。協会と選手、同じ競技に関わっている人達がこじれてしまうのは哀しいことです。
 
 さて、「進化しているな」という突飛に聞こえる私の結論について少し説明を。試合後の会見について全般的に起点をいつごろと見るかというのはひとつ大きな問題なのだけど、社会学の論文ではないし大雑把な捉え方をすることをお許しください。
 私が幼い頃にはテレビや新聞で「選手は硬い表情のまま無言で競技場を後にした。」こんな表現が使われることも多かったように思います。1990年代には試合中継の最後のインタビューというのは結構見かける光景になっていたように記憶していますので、80年代から90年代に起点があるものと仮定すると2021年までに30~40年の時が流れたわけです。長いですね。
 最近の30~40年というと日本の社会においては閉塞感の漂う成長が止まった時代とも重なる期間なのですが、スポーツの分野では日本も世界も同様にウェア、シューズ、用具、様々なものがその素材から革新的に向上し、アスリートの能力を最大限に引き出すための型も熱心に細密に追求して前に進んでいたようです。そういったハード面でのサポート、またスポーツ医学やスポーツ理論の研究にも支えられて、努力を重ねたアスリート自身の身体も能力も飛躍的に向上しました。この辺りはデータを追うことができる客観的な事実ですね。
 アスリート自身に関わることについて少し掘り下げますと、「より強く」にかかわる身体の向上は数字で測れるだけでなく例えば大きな部分の骨格や筋肉としてその成果が目に見える変化として反映されやすいので、本人以外も分かりやすい伝わりやすいというのはあると思います。一方で「より速く」「より精確」にかかわる能力は脳の指令や神経の伝達に因る部分が大きいので、その向上は反応の速さの測定など数字で測ることは可能であるものの、「より強く」の身体の変化と比較すると繊細な変化であり同じような鍛錬を積んでいる者以外にはどこを見れば判るかというのが若干伝わりにくいと思います。思います、の羅列でいい加減な話を展開している印象をネット上にばらまいている不安。でも人間の目というのは存外高性能で、微細な変化やパッと見ただけの情景を細かく拾ったりしているはずなのですよ。脳は普段、オーバーヒートしないことを第一義に掲げて、細かすぎる情報は処理の必要のない情報としてどんどん圧縮して片づけていく。忘れ物をした時にそれが最後にどこに置かれていたかという視覚的な記憶がパッと思い浮かんだという体験をしたことがある人は多いと思いますが、あの体験は、出かける前に要らない情報として片づけられた記憶が忘れ物に気づいた時点で必要な情報として改めて読み込まれた、ということです。かなり遠回りな話運びをしてしまいましたがアスリートの話に戻しますと、トップアスリートの領域に至る人達は練習や試合において脳をブーストして、より多くの情報をONの状態にして働かせているのでは?というところに辿り着きたかったのです。
 30~40年前のアスリート達も当時の人類の中では素晴らしく進化した人達と推測しますが、前述したように多方面で技術などの研究開発が進んだ結果、現在2021年のアスリート達についても彼らより更に脳や身体を使いこなせるように進化してきたのではないか、と推測しています。そうしてみると、大坂選手、マヌエル選手、多くのアスリート達が声を上げ始めた内容について得心できる気がするのです。脳のブーストってきっとすごく大きな負荷がかかる状態。PCがある時代でよかったなと思うのだけど、動画の再生などちょっと高負荷な作業をするとPCのファンがブアーーーとすごい勢いで回るじゃないですか。だから作業の間には休ませて内部の温度が下がるのを待ったり、ね。アスリートの皆様の足元にも及ばないだろうけど、私もサイトに投稿した後や料理を作り終えた直後に「もう何もできない」と 無 になる日があります(虚無ではない)(毎回ではない)。程度の差はあれ、多くの人がそういう体験を持っているのではないかな。

 つまり試合後って、きっと本当に頭真っ白というくらい全てを出し切っているのではないでしょうか。一方的な会見ではなく会話することが求められる場所に向かう前に自分を取り戻したいというのは当たり前のこと。同じ人間として当たり前の敬意を持ってほしいというのはそういうことではないかなと、老婆心から勝手な想像をしてみました。
 
 そういう思考の流れで私は「待ってあげれば?」という意見なのですが、「一部のメディア」と呼ばれてしまった人達や番組や紙面の構成を決める人達にもそれぞれ都合はあるのだろうし、無理強いはしません。お互いに少しずつ譲り合って折り合いがついたら、それが1番いい形だよね。
 みんな頑張れ!まるく収まれ!