8年前(6)12日

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「3月12日15時36分」とWikipediaに書かれている。その映像を私は見ていた。

12日、原子力発電所の状況は朝から騒がしかった。夫は災害対応のために出勤していたので、情報収集は私の担当と決めてずっとネットとTVを付けていた。ネットでは動きの速い偉人が多く存在して、じわじわ上がっていく原子炉の温度や各所のライブカメラをひと目で見られるよう組んだサイトなどが着々と出来つつあった。早いサイトは11日には登場し12日の午前には改良までされていた。のちにはガイガーカウンターを設置してリアルタイムでずっと見られるようなサイトもできたり、名前が出なくても自発的にできることをしてくれた人たちが大勢いたのだ。引っ込み思案で当時書き込みなどはできなかったが、あの時とても励まされたこと、今も感謝していることを伝えられたらと思う。彼らのおかげで初期の混乱と向き合えた。

無為に過ごしていたように思われるかもしれないが、私も文字や数字をただ追いかけていただけではない。そんなことは起きないという人もいたが原子炉が爆発しない保証は無い。もしもに備えて、一般市民としてはどうするのが最善か考えていた。
何しろ普段とはまるきり違う状況になってしまったのだ。道路は至るところボコボコだった。そのうえで自力で市外へ避難しようとするなら「原子力発電所に近づく道路」「余震の陸地震源地のそば(横は崖)」「大雨でよく崖崩れが起きる道路(横は川)」「地震で崩壊した道路(通行止め)」「海の際の道路(11日に津波がかかった)」から選ぶしかなかった。どんな脱出ゲームより難しそうな状況だった。

全員がそれぞれ個人で市外へ向かうのは無理。ひとつには、車が無いあるいは失った人もいる。次に、残った車で人々が一斉に市外へと殺到すれば渋滞する。通行困難な道路で渋滞中に大きな地震や津波に再度襲われたら、更なる悲劇しかない。
となると全員が統率された形で順番に避難するしかないが、これをコントロールするのは県か市町村か、はたまた国か。どこが主導権を握るにしても仕事が降りてくることは確定しているので、市町村はすぐに支所より細かいレベルまでシミュレーションを立てなくてはならない。避難計画と、それを伝達する手段。もう取り掛かっているだろうか。まとまったらすぐに実行しないと。市外の縁から徐々に住民を送り出すのだ。可能なら、子どもや病人、老人を優先することも考えなくてはならない。
とにかく時間が無い。原子炉の温度は刻一刻と上がっているのだ。市町村は間に合わせることができるだろうか。彼らに今そんな余裕は無いかも。それなら提言を・・・とても大きな地図が必要なのに手元に無い!

そしてあの1号機の映像だ。間に合わなかった。
ぐちゃぐちゃの頭に浮かんでいたのは。原子力発電所というものを知った時にはもうそこにあったこと。数十年前、学校に関係者が来て「安心安全で素晴らしい未来のエネルギーです」キャンペーンをされたこと。チェルノブイリ。茨城の事故。「県民と県内で働く人の生命と健康を守る」と言っていた佐藤栄佐久知事。国会中継かなにかで共産党の議員が根気よく説明と質問をしているのを見たこと。それに対して子供がふざけているような答弁が返されていたこと。
起こるべくして起きた。
終わった。

だいぶ時間が経ってから、1つだけ前向きになれる要素を見つけた。少なくともこれで、全員が避難することになったのだ。車が無くて避難できなかった人も、怪我人や病人を抱えて避難したくてもできなかった人も、道路の様子が怖くて避難に踏み切れなかった人も、会社の方針で避難を諦めていた人も。みんなが脱出できるはずだ。
脳裏には、大雨などの被害を受けた人々が自衛隊のヘリコプターに救出されていた様子が浮かんでいた。「遅くても明日には全員の避難が始まるだろう」そう考えると、終わりでしかなかったこの状況が始まりであるようにも思えた。
夜、給水をもらいに外へ出た。遅めの時間で家の周りに人の姿は見当たらなかった。街全体がひとつの生き物でじっと息を潜めているような、とても濃密で重たい気配だった。頬から首の辺りがチリチリした。地震が起きてから初めて感じる『人に対して』の怖さ。こんなときによくない傾向だった。夫に話してみると「状況に沿った気分を反映しているだけだから大丈夫」と、私を心の世界から現実に引き戻してくれた。災害時に、不安な気持ちを1人で抱え込まないというのは大切だ。

深夜のTVでは、独特な髪形をした原子力の専門家がしたり顔で事故の解説を展開していた。給水に向かう途中、このTV局(昼に街なかの中継をしたほう)の前を通りかかったら、真っ暗でひと気がまるで無かったことを思い出した。
「危ない!」と思った時には変な笑いが出ていた。精神が壊れかかっていると自覚した。正常な軌道に戻らなくてはと慌てたとき、顔の筋肉が笑いの形に動くと作り笑いでもエンドルフィンが出ることを思い出した。エンドルフィンというのは幸せを感じたときに分泌される脳内物質だ。それで、「私たちには今、笑いが必要だよね~」と言ってみた。失礼な行いではあったが独特な髪形を種に2人で声を合わせて笑わせてもらった。長かった1日がようやく終わろうとしていた。
・・・この部分には続きがある。健やかな笑いになるよう努めたのだが、後日制服の人が「様子伺い」にやってきたのだ。姿は見えなかったけれど大切な人や財産を失ったという方たちも家の周りにはいたはずで、不謹慎では済まないことをしてしまったと反省している。
あの時の私たちには笑いが必要だったというのは本当に切羽詰まった真実だったのだが、こちらの状況を思いやってほしいのなら自分たちも周りを思いやるのが社会のルールだ。未曽有の災害ばかり重なったterribleな状況だったとはいえ分別に欠けた行動だった。2度とあのような災害に見舞われたくはないが、再びあんなことになっても次は配慮を失わないと心に刻んでいる。
あの日誰かにいやな思いをさせてしまったこと、本当にごめんなさい。