8年前(7)13日朝~昼間

Reading Time: < 1 minute


長かった12日が終わり、翌13日日曜日。
夫のその日の仕事は市外から作業に入ってくれる方たちのナビだと聞いていた。家には風邪用のマスクしか無くて、2枚を重ね、間に濡らしたティッシュを挟んだだけで出かけていく夫を見送らなければならなかった。不安だったが、「昼間のうちにはきっと避難計画がまとまるよね!」と明るく送り出した。そうすることしかできなかった。目には見えない放射性物質が飛んでいることは数値が示す通り明らかで、そんな中を夫は1日中車で走り回り、私は少しは安全な屋内に残る。その現状がとてもつらかった。
家に1人残った私を感情の疲労が襲った。持ちきれないほどに大きくなってしまったマイナスの感情が、気分の落ち込みとして一気に来たのだ。
抑え込んではいけない、と経験が告げていた。今は家に1人なのだ、好きなだけ落ち込んでいい。すとんと表情筋を落としてそっと目を閉じた。そのまま、考えることも休んで波が去るまで数分の間じっとしていた。

換気扇周りや窓は、爆発の少し後に大雑把に目張りしておいた。充分ではなくても、できる備えはしておかなければならない。しっかり塞ぎ直していたら少しやる気が出てきた。
ニュースとネット、自治体などのHPを閲覧した。全体の避難計画の発表はまだ無かったが、自衛隊が到着して道路の点検や補修が始まっていた。マスク等の装備が私たちより充実しているとはいえ、こんなときにこの街へ入り屋外作業にあたってくれるのかと心強く同時に申し訳なく思った。道路が直されれば避難はスムーズに進むはずだが、それは彼らに危険な作業をしてもらうことと引き換えなのだった。
考え込まないよう気を付けながら、2人分の手荷物をまとめた。持って行けるのは本当に手放せないものだけ。通帳や印鑑などの貴重品と財布、携帯電話と電池式の充電器、ノートPC、マスク、ウェットティッシュ。別のバッグに1~2回分の着替えも用意したが、きっと処分することになるだろう。
まとめ終えた荷物はとても小さかった。そのことが事態の深刻さを象徴していて胸の辺りが重くなった。

原子力発電所の状況はこの日も悪いほうへ進んでいった。建屋が爆発したという1号機は燃料の現在位置が不明、今度は3号機が今にも・・・という状況だった。
地震は12日の午前にはやや間遠になり始めていたものが、前日1号機建屋が爆発した後に再び増えていた。震源も海ではなく発電所近くの陸地というのが増えつつあった。そして揺れ方が変質していた。小学生のころ、同級生が足元に爆竹を投げてきたことがあった。火を消そうと踏みつけた爆竹は靴底の向こうで爆ぜ続けた。あの時足裏に感じた感覚と、この揺れは酷似していた。バチバチぶちぶちと爆ぜるような衝撃に混じって小刻みな直下の縦揺れ。とても近かった。酷くて長かった本震よりもこちらの揺れのほうが、私は怖ろしかった。