8年前(10)14日~20日、その後

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14日に夫の無事を確認した後の数日間については綴ることが難しい。思い出せることもあるのだが、借り物の記憶のような、自分の記憶にしては遠いところにあるという感触なのだ。知人の消息、市内沿岸部の映像、夜の闇にぼうと光る燃料プールの映像。給水所でマナーの悪い人に会ってしまったこと。記憶を掘り下げようとすると真っ黒な淵をのぞき込む感じで、先に進むことができない。
記憶といえば、私の記憶には2000年から2010年の間に数年分の欠落があったことが昨年夫との会話で判明した。そのときは夫に更に遡ること1年、今から2年前に同じ会話をしていることを指摘されてようやく一部、自分のものと確信できる記憶が蘇った。しかし肝心なところはひとつも出てこなくて、何かよほど耐え難いことがあったのだろうという話になった。
記憶にまつわるこの癖から考えると、夫の無事を確認できた14日の夜以降私はとても深刻に絶望したのだと思う。どうして子どもがいる家族だけでも避難させてあげないのだろうと夫に泣きついた会話の記憶が残っている。その後は震災のことや発電所のことをあまり話さなくなった。かといって他のことを話す気にもなれなかった。足の下でも海でも続く地震。原子力発電所。睡眠不足。栄養不足。希望の見えない現状。もう耐えられないと思った。手負いの獣のようになった自我を社会から隔絶し小さく小さく縮めて丸め、夫のそばでじっとしていた。

18日の記録によると夫が仕事に行っている間に屋根裏の点検をしたとあり、身体的には意外とアクティブに過ごしてはいたようだ。水道が復旧した記録もあり、少し気を取り直した様子も見られた。水道、ガス、電気。日常に還るためにどれも欠かせないものだった。

20日はしっかり思い出せる記憶がある。スーパー(マーケット)が営業を再開し始めたので、食料を買い足しに出かけたのだ。その前数日間のことがあったので、靴の紐を結び玄関を出る前に自分の内側をきびしく点検した。神経が過敏になっていないか、攻撃性が高まっていないか、逆に公共の場で泣いたりしてパニックの元になる危険はないか。どんな突発的な状況でも自分を制御しきる自信が持てるか。goサインを出す自分に更に問いかけた。その「大丈夫」は浮かれた自信に基いていないか。地に足は着いていたし心も鎮まっていた。
それでも2時間までと決めた。それを越えるようなら食料調達を達成できなくても家に戻ると誓って外へ出た。
被災してから初めての1人での外出だった。行き先はスーパー。地震が起こる前の日常の行動に少し近くて、安堵と悲しみを覚えた。
非常時に営業を再開してくれたスーパーの皆さんの努力には今も心から感謝している。臨時の対応として、一度に入場できる人数と購入点数には上限が設定されていた。店の外には普段は見られない大行列が出来ていた。左右を見渡しながら、居並ぶ人たちの表情をそっと目の端に映していった。みんな疲れていた。憔悴という言葉に当てはまりそうな人も見受けられた。それでもみんな秩序を守って列を作っていた。顔は少し疲れているが明るめの口調で話す子がいて、逞しくまた微笑ましく思った。抑えた声のとても穏やかな口調で家族に語り続けるご婦人がいた。そうすることで彼女は家族と話しつつ周囲に穏やかなトーンを拡げているのだった。意図してなのか無意識なのかはわからなかったが、それは集団の中にいる時に大切な人達を危険に晒さないための知恵だ。心の中でそっと彼女に手を合わせた。反抗期継続中を主張するような服装の若者たちが家族と共に行儀よく列に並んでいるのを見たときは、「この街は大丈夫」と涙腺が緩みかけた。ここで泣いたらゲームオーバーだ。まだ家に戻るわけにはいかないと、深呼吸して涙を引っ込めた。
1時間近く待って、順番が来て入った店内は照明が控えられていつもより暗かった。BGMも無い。それでも十分明るかった。店側も客側もただ生きようとしていた。清冽な光が静かに満ちて、厳かと言っていいようなちょっと不思議な空間が形成されていた。
丸ごとの大根とキャベツ、人参。肉はいつもは買わない大きいサイズのパック。卵。デコポン。心許無くなっていた米と既に切らしていた味噌。他。米が重かったので上限の数より少ない買い物で終わりにした。レジ担当の店員さんたちがひとりひとりに「がんばりましょう」と声をかけていた。私も店員さんたちに同じ言葉とお礼を伝えて店を出た。
その2年前には昇り降りできない日もあった階段を、10㎏の米を持ってあがった。息が切れ背骨に力が入らなくなった。地震に耐え続けた体に疲労が蓄積しているのだった。病人やお年寄りをはじめ虚弱な人はどれほど堪えていただろう。

福島県内では、文部科学省と福島県知事の要請を受けて長崎大学の放射線医学の専門家達が医療や啓蒙のための活動を始めていた。彼らが来るまでは発電所と立地市町村を除くと福島県浜通りは腫物のように扱われていた。それだけ原子力発電所の事故を深刻に受け止めていた人が多かったということだ。だから、ありがたいことではあった。しかしそれは同時に、この先、福島県民はばら撒かれた放射性物質と共に生きていくと決定づけられたことを象徴していた。
私の心は完全に折れてしまった。もちろん彼らのせいではなく積み重ねられた現実に、である。

あの日から8年が経った。サイトで311に触れるのは来年にしようと考えていたのに、3月11日の夜になってから、やはり平成が終わる前に一度向き合っておきたいと文章を綴り始めた。信じたり泣いたり励ましあったりしながら、みんな生きていた。避難所に行った人や復旧作業に従事してくださった方からは別の形の311を聞けることだろう。とても狭い世界で進行した私の体験は多面体の1面に過ぎない。
幹線道路が補修され流通が復旧してくるにつれ、街は日常を取り戻していった。県道や市道の中には2011年末近くまで補修の手が及ばないところもあった。数が膨大なうえ時折大きな余震もあって、直しても直してもなかなか進まなかったと聞いている。
スーパーの陳列棚にところどころ見られた空白も、4月末にはほとんど目にすることが無くなった。数年後の311に、慰霊の祭壇横に「あの日の店内」の写真を小さく掲示してくれた店があった。商品が散乱して床が見えなくなっていたり天井の建材が斜めに落ちかかっていたり、あの混乱から立ち直って今なのだなと胸に迫るものがあった。
廃業を余儀なくされた会社等は本当にとても多くて、かける言葉が見つからない。新しく生活を立て直して、充実した現在と幸せを築けていますように。
街全体は様変わりした。建物が壊れてしまったから。被害を受けて地区全体が変わったところもある。何年、何十年かかってもいい、悲しみの地がいつか元気に子供が遊んだり家族がくつろいだりできる地になりますように。
そして、人。
改めて311とそれに続いた多くの事象によって亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたします。知らずに踏み込んではいけないと思うから、このような場でご遺族に安易な言葉はかけられない。自分の思いも他の人の思いも大切に、そして思いに囚われることなく生きてください。

日本は自然災害の多い国と教わって育ったが、311後の災害は規模も数もそれまでとは少し違ってきたように感じる。物や避難の手順、連絡手段などそれぞれ備えていると思うが、心身の備えも大切だ。目新しさなどない当たり前のことで恐縮だが、体を鍛えること、疲れを溜めこまないこと。体力に余裕があれば心の余裕につながる。心そのものを鍛えるより早道ではあるかもしれない。心に余裕があれば理解するのが難しい相手や受け容れがたい事態に遭遇しても、自分達には計り知れない背景があるかもしれないと待つ姿勢を用意できるだろう。
心の鍛え方と尋ねられると答えるのが難しい。日常生活のほぼ全てが心の鍛錬の場であることが視えている人も多いと思う。つまり心を鍛える種は常に身近にあふれていて、あまりにも多すぎて簡潔には説明できないのだ。これもまたよく言われることだけど、禅の考え方はとても参考になると思う。触れた事がないかもしれない若い人や外国の人にも伝わるようキャッチーに言い換えると、「ヨガは心と体に効く。禅は心と行いに利く」といったところだろうか。
新陳代謝機能が停止しない限り、人間は変わっていけます。311は未だ終わらず、災害は毎年のように起きている。日本だけではなく世界中で。次があったらなんて考えるのも恐ろしいけど、私もできることを深めていく。明日を信じて。
どんなときも誰に対しても、寛容さを持ち続け理性的判断ができる。そんな余裕を持てる社会をみんなで築けたら。それが311を体験した1人の心からの祈りです。


最後になりましたが。
無駄に長く読みにくい文章を根気よく読んでくださった方に感謝を申し上げます。
どうか、お時間があれば、他の方の311にも触れてください。私はとても小さな世界で生きている偏った人間で視野も狭い。ネットには写真記録などを多く残してくださっている方もいらっしゃるので、ご覧になるとまた違う311が見えてくると思います。様々な価値観に出会えますように。
最後までありがとうございました。