人と人との間には

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 九州南部の雨、いったんはピークを過ぎたようですね。まだ警戒を続ける段階とはいえ、ひとまずほっとされていると良いのですが。昨年、中国四国地方に大きな被害をもたらした豪雨の時にYahoo!の天気ガイド「雨雲の動き」を見ていたのですが、当時、九州南部にも結構な量の降水域の停滞があったんですよね。「台風もよく接近する地域だけあって治水がしっかりしている」と指摘されていて納得したものです。
 記録的な豪雨で今回は土砂崩れや河川の氾濫などの被害はありましたが、日常を再び取り戻せるようお祈りさせていただきます。



 私は、というと。少しダウンしていました。というか現在形でダウンしています。
 生きていれば時々(いろいろな意味で)不調はやってくるものだけど、数年ぶりに精神の海溝に深く深く潜行しているような、そんな状態です。私がこの手の状態=抑鬱状態になるのは、誰かの望みを自分の望みより優先し続け過ぎたとき。わかっているので適度に譲ったり譲られたりしていたつもりだったのに、今回は悪いほうに歯車が合ってしまったようです。まあ、いつもうまくいくとは限らない。こういうときもあるね。

 蛹のようにしばらく閉じこもって静かにしていたい。そうもいかなくて外に出て、人と話したら思いがけず心に水を少し分けてもらったり。そんなふうに、いつも、小さく助けられている。私も誰かの小さな助けになれているだろうか。死を迎えるその時に人間に対する感情がゼロよりちょっとだけプラスであるように。人類に今少しの猶予を、と祈りながら死んで行きたい。そう願う私には、それくらいがちょうどいい。

 抑え込んでいる望みは。
 ブラウザのリーディングリストには夫と話してみたいと思ったニュースや話題のリンクが溜まっている。今までに話すことができてリストから消えたのは数件。保存したリンクの全てについて話そうとはさすがに思っていないが、もう少し話せたら、とは思う。
 そういった話をすることが夫は「苦手だ、好きではない」と言う。私は社会における自分たちの家庭、夫、自分の立ち位置を確認することは「ときどき~できるだけ必要」と考える。その行き違いがどちらかを抑圧する。今回は、私が抑圧されている側というわけだ。
 話をしなくていいと考える人たちは忘れてしまっているのかもしれない。何故話をしなくていいと自分は考えることができるのかを。片手に収まるくらいの年齢のころに、この大人についていけば間違いないとか、この大人の真似をしていれば当たり前のことが当たり前に身につくとか。そういう体験に守られて、人の間で育った人は(成人かどうかはともかく)人間になることができている。
 その体験を欠く私は外から眺めて見よう見真似で人間になろうとしてきたけれど不足している。人であり続けることは叶えているが、人間としてはでこぼこし過ぎで分野によって及第と落第の落差が激しい私は、自分で得た家庭でおそらくはずっと、一生、補完し続けることが必要なのだろう。そのためにあなたと話したい、勝手だけど力を貸してほしいのだ、と。呼吸と同じくらい必要なことなのだ、と何度か伝えたけれど。難しいのだろう。仕方のないことだ、夫と私は別の人間なのだから。それでも苦しいものは苦しくて、ときどき今のような状態になる。


 人と人との間には。
 深くて埋められない溝があるのか。
 隙間を埋める情があるのか。

 それを決めるのは当事者たち。