つなぐもの、意識

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 「身体」の話をなんとか切りあげて、ようやく「意識」の話です…。
 意識、精神、自我。他にもありそう。どの言葉が最適なのかと再確認したのですが、魂、身体と綴ってきたこの一連の投稿においては「意識」で書いていくことにします。冒頭に挙げた単語は、私が(哲学的)世界について考えようと試みるときには概ね同じ意味で使っています(注:日本語としてはそれぞれ他と重ならない部分の意味も併せ持ちます)。そのため哲学科などで専門的な知識を身に着けたかたには「それらの言葉は厳密には違うよ」と読みにくい思いをさせてしまうかもしれません。そこは「茶飲み話と自分で書いていたね」と流していただけるとありがたいです。


 さて、意識と言われて最もピンとくるのは、起きている間の「我思う」ですよね。「我思う」は…話がとてもとても長くなりますね。いずれ別に機会を設けましょう。そういえば昔、「脳と意識、実際に考えているのはどちらだろう??」と悩んだことがあります。なかなか答えが見つからなくて、大人になってからも時々思い出しては「まだ分からないこと」と仕舞いなおしたり。それがパソコンというものが出てきて、「CPUをはじめとしたパーツ一式とOSのようなもの」だと捉えるとスッキリすることに気が付きました。脳と意識の両方が揃うことで考えることができる。どちらと問題を設定したことが間違っていたというわけです。
 それから、意識というものは普段は概ね身体に沿う形に収まっているけれど、眠っているときなどに身体とは違う形に拡がったりずれたりということもありそうです。知らない景色を夢で見るのを睡眠中に意識が空間的に拡がっていた影響と考えると説明がつきませんか? 予知夢というのも同じように、睡眠中に意識が空間だけでなく時間的にも拡がっていた影響と見ると肯定できる気がします。起床後に覚えていることが稀であるために否定的に捉えられがちなのだと思います。


 魂、身体、意識のうち、触れたり見たりできるのは身体だけ。身体はこの世界の物質として確実に存在していると言えます。これだけが事実。この先はすべてが仮定の話になります。
 身体を足掛かりにして考えてみると、物質に過ぎない身体をどのような生命として機能させるかという方向性を定めるものが魂でしょうか。物質である身体と物質では無さそうな魂。位相の異なる両者が奇跡的に重なったところを一時的にひとつのものとして留め置くこと。それが意識の役割だと考えられます。数学の集合の話ですね。
 どんなモノなんだろう、意識。異なるものを引きつけ続けておくなんて、なんとなく重力みたいなイメージです。あるいは重力とは逆の、両者を包み込む膜のようなモノでしょうか。身体も魂もいずれは意識のくくりを離れてそれぞれの位相の重なっていない部分に移動していく、それが死という現象と言えそうです。
 死後、意識はどうなるのかについても考えてみました。魂の項で挙げた伝承によると、魂は眠りについて次の生を待ち、身体も土に還る。意識は、死後の魂が空へのぼる時、魂を守って一緒にのぼっていきます。そして気の川で記憶が洗い流される。ということは、身体が土に還るように意識も気の川に還るのかもしれません。


 一期一会は人と人との縁についての教えですが、魂と身体と意識の組み合わせについても言えることだと思います。あなたも私もこの組み合わせで生きるのは今生限りです。大切に、生ききりましょう。そしてどうか、同じように今生限りを生きている大切な人知らない人、彼らが生ききることもできるだけ尊重する人間であれ。