生の感情を吐き出すことと、私がアドレスに掲げている naked-spirit むきだしの魂の意味するところは違う。だけど今日は虐待の裁判のニュースが辛すぎて、…ごめんなさい少しだけ吐き出します。
どうか、簡単に手にできる満足感の中毒にならないでください。答えや満足感やそういったものを、簡単に手に入るものと定義しないでください。でっかくぶち上げた目標の、達成に至るまでの努力や工夫のひとつひとつ。そういうものにだって、充足感は得られるじゃないですか。
安易に手に入る多幸感なんて安易に枯れてしまうものです。それもあっという間に。「すぐに無くなってしまった、でもすぐに手に入ったじゃない?」この思考パターンに支配された未来がどうなるか、想像できるでしょう?人間は、毎日とても満足な状態でいなければ不幸などということはありません(いつも幸せそうに見える人がいたとして、それは傍からはそう見えるというだけ、そう見える人の事情ではなくそう見ている人の目がそう見せているだけです。いつも幸せに見える人が本当にそうなら、その人は幸せの捉え方が上手なのでしょう)。
それでも生きにくい世の中での暮らす毎日、小さな満足感に救われることもあるのは確かです。そういうときは対象を人にしないこと。たとえば身の回りの道具(鍋とか掃除機とか靴磨きセットとか)を毎日ひとつずつ丁寧に手入れすることで、そういった満足感は得られませんか?道具は保たれるうえに、初めは同じことを繰り返しているように感じられても着実に身についてスキルアップしていくもの。その成長はアバターではなくその人自身のものです。そういったことに達成感や充足感を求めてみませんか。
「わかってる。
それを重ねてきて自分のエネルギーがもう限界なんだ、だから人に求めるんだ。」
そういう人もいるよね。でも人からエネルギーを得ようとするときに奪っては駄目。それは絶対に駄目です、相手のためにもあなたのためにも。人から奪うというのはすごく成果を得たように錯覚しやすいですよね、相対的に。しかし、「奪って得る」という意識を武器にした時からその人は業の奴隷になってしまいます。奴隷は成果を搾取される存在でしょう?だから満足できないのです。どんなに繰り返しても。どんなにエスカレートしても。
限界で人からエネルギーをもらいたいときは決して奪い取ろうとしないこと。
「他者から結果や評価を」もぎ取ろうとするから上手くいかないのです。他者に対してはその「過程」に目を向けたほうがお互い幸せです。相手が植物だったら。種を蒔いた時から今日まで「よく育ったなあ」と植物を讃え自分を褒めることはあっても、「笑顔を向けてくれない」と不快に思ったりはしないでしょう。相手が人間だというだけで何故、対応を変えるのでしょうか。
巷間言われているように、虐待をする人は自身を大切にする方法を知らない、というのはあると思います。
自分自身がギリギリと締め上げられていて苦しんでいる。苦しみから逃れたい、あるいは自分の状態を認識すらできないほど苦しい。そこに弱い者、その権利の全てを握れる弱者が現れて。虐げる。楽になる。でもすぐ苦しみでいっぱいになる。また転嫁する。また楽になる。中毒になる。
蟻地獄のよう。
もし虐待している人、してしまいそうな人が読んでいたら。
終わりのない苦しみに自分をはめ込んで、誰かを引きずり込むなんてやめよう?その場所じゃ、誰も楽しくないし誰も幸せにならないって。
虐待する人を蝕んでいる何か、誰か、本人による問題。苦しい状態を我慢するのは強さではありません。相手に配慮して問題を解決せずに自分が苦しみ続けるのは優しさではありません。子を便利な憂さ晴らしや言い訳の道具にするのは大人のすることではないよ。「弱いから」「バカだから」考えないで済ませられると?それって人間性が失われつつある、とても危険な状態だと思います。今すぐにその場所を離れるんだ!人間でいられる場所に自分を置くんだ。
自分の責任において、自分を縛る問題を認識して、解決法を考えて。主体が自分であれば、解決法として誰かに相談したり頼ったりというのは肯定されていいと思います。
どうか人間であることを思い出してください。人間であり続けることを諦めないで。
今からこの投稿をupしたら、私もコップの茶渋を取る。私自身と、ついでで申し訳ないけど誰かの苦しみがそれで少しでも昇華されますように。
2022.08.31 この日、とある虐待事件が報道され亡き母を思い出して投稿しました。彼女に私の言葉は届かなかった。……いま生きている人は未来を選べます。どうか負けないで。