15日の海底火山の噴火から数日、トンガの方々の声がようやく少しずつ聞こえてきました。外部と連絡が取れず、全容をつかめないまま被災地に留まるほかない状況はどれほど不安だったろうと思うと言葉が出ません。
皆様が穏やかな日常を取り戻せますようお祈りいたします。
生きているだけで、様々な目に遭うね。だから、せめて人間同士は争うよりもいっしょに歩いて行こう。時には少し休憩もしながら、ね。
「日々の覚書」カテゴリーアーカイブ
2022年 初春に
明けましておめでとうございます。
2022年が始まりました。昨年、というかこの数年は心を長調に保ち続けることがなかなか厳しい局面も多くて、大変でしたね。みんな(私達)、本当によく頑張った!ありがとう!!私が言うことではないかもしれないけれど、何故か「ありがとう」って伝えたくなった。こういうときは内なるカミが「みんなに伝えて」と願っている時なので、記しておくね。
気にかかっていることはたくさんあるのですが、社会には明るい兆しも見えてきたように感じます。特に日本は、秋頃から急に目を覚ましたみたいに動き出して、どうしたのだろうと嬉しい驚きをもって眺めています。家族に疑問を聞いてもらったところ、「選挙かなあ?」との見解。そういうものなのでしょうか、上のほうの動きって難しい。
自分と同じぐらいの目線の人達はニュースのコメント欄などを俯瞰してきた感じでは、夏秋とひどく荒れた後、自分たちのことは自分たちで立て直そう、そのために見直そう、そのためには学ぼう、みたいな動きがそれまでと比べてはっきり出てきたように見えませんか?私の思い込みかもしれませんが…。こういう動きが出てきたからにはそろそろ大丈夫かな、と思ったりしています。
世界の各地も同じような意味で大丈夫になっていたらいいな、と思います。
そうですね、日本は、体を洗った動物がプルプルッと水気を振り払うような、そんな動きがあるかもしれませんがきっとこの国は大丈夫。だよ。
世界のあちらこちらからアクセスしてくださる方々に向けても言葉を紡げたら良いのですが、私はそんなたいそうな存在ではなくただの隠居の身、知識も教養もまだまだで…。そこで内なるカミが漠然と伝えてくるイメージに拠りますと、「道はある」と言っている気がします。そうだ前回、良くないものに接してしまった時は「心の中でブランケットを抱きしめよう」みたいなこと(振り返ってみるとこれはPEANUTSだね)を書いたのだけど。もっと簡単に実行できる「手を洗うこと」というのを失念していました。精神的な意味合いでも、コロナウィルスなどの予防といった実効的な意味合いでも、これはとても大切。たぶん「道」というのはこういう類のことだと思う。
水がとても貴重で、その行動がなかなか取れないという地域もまだ世界にはありますね。その場合は、自分にとっての精神的な素に戻れる場所を定めてそこへ自分を置きなおすためのスイッチ、これを日常の基本的な行動のどれかに組み込んでしまうと、世界が少し近しくなったように感じられるかもしれません。
新年を無事迎えられたので感謝の気持ちを表したかったのだけど、言祝ぎになったかな?我ながら相変わらずちょっとズレている気もします。それでもいいか。
越えて行け。親の背中を。
越えて行け。先人達に感謝しつつ。
命はそのために生まれてくるのだから。
越えて、行け未来へ。
2022.01.05 文中の2箇所から記号を削除しました。内容はそのままです。
願い
おねがいだから、刃を人に向けないで。自分にも。
唐突な始まりの言葉でごめんなさい、久しぶりの投稿だというのに。
でもね、もう何年も気にかかっていたのです今頃言うのかという感じですが。媒体にかかわらず、私刑を是とする作品が異常に増えているな、と。誰かにお題を与えられて、習作を見せ合うかのように濫造されていないか、と。
読書、映像鑑賞、漫画、ゲーム。見落とされがちなところではニュースも。媒体を問わず何かに向き合う、時間を費やす、ということは多かれ少なかれその身に影響を与えるものです。自分では「影響無い」「問題無い」と思っていても、見たもの聞いたものは主体を浸食し変容させるの。100㎖の水道水に1gの塩を入れたら、それはもう元の水道水とは違うものでしょう? 1g、1g、3g、1g、5g、…と重ねてしまったら。
大抵の人は影響を薄める行動を本能的に採るようですが、身動きしにくい立ち位置に在る時、或いは(意識上無意識下のどちらでも)薄めるという概念と出会っていない人、様々だと思うのです。私刑を題材にした作品を、ボクシングのジャブみたいに気軽に世間に送り出さないでほしい。これは「嫌だと思う人が見なければいい」という問題ではないのよ。悪意を持って、というなら尚更お断りです。
作る側には「魅せやすい」という事情もあるのかもしれません。けれど真摯に作られている作品もある一方で、「私怨を晴らすことや無法を働くことや暴力を肯定どころか称賛されるものとして描くのはどうなの?」と警戒したくなるような作品が近年多過ぎではなかったでしょうか。…今年はそうですね、コロナで疲弊した人々の心に寄り添うような作品も伸びてきた向きがあったように感じますが。
表現の仕事というのは幅広いものだけれど、共通して「表現の自由とは」という問題を抱えていますよね。法で規制されたフォーマットでしか表現が許されない世界はきっと面白くない。鬱になりやすそうで嫌ですよー。だから外部から問題視されるよりずっとずっと早くから、自分達で一線を守っていかないと…なんて、分かっていらっしゃるでしょうね、私が言うまでもなく。うむむ。ではここで投稿すべきは先に触れた 影響を薄める行動 についてだろうか。
大前提として「見ない読まない触れない」があることは置いておきまして、先ほど食塩水に例えたのでそれを用いましょう。何かを口に入れてみたら「塩辛い!」、さてどうします? 水を飲むか、状況が許せば吐き出してやっぱり水を飲むか、そういう行動を採る方が多いと思います。四角張った表現だと「中和」作用を図るわけです。
これを今回の話題に当てはめて言い直すと、例えば暴力的表現のコンテンツに接した後に、その影響を「消波」するように、穏やかな気持ちになれそうな行動を能動的に選択する、などの行動になります。お勧めは、肌当たりの柔らかいブランケットを撫でたりくっついたりすることですね。最初は無生物、というのは結構大事なポイントです。「家族や友人と話をしたり、ペットと触れ合うことでは駄目なの?」と疑問に思われる方もいらっしゃると思うけど、個人的にはそれは消波の次の段階で採用してほしい選択肢です。
何故なら、生きている相手だから。
予想以上に元気をもらえて「すごく嬉しい!」「とても癒された」という流れの可能性も勿論あるのですが、ということは反対もあるわけで。生きている相手がいつでも自分の期待通り予想通りの動きをするわけではないと知ったなら、「ワンクッション置いたほうがお互いのため」という考え方も知っておいて損は無いと思いますよ。慣れてくるとブランケットが手元に無くても心の中でその段階を踏むことはできるようになるものです。
まあ、無生物から身近な存在の相手と段階を踏むのは私の好むパターンというだけの話。コンテンツから自分が受けた影響の強弱を図るのが上手な方なら、パッと自分をニュートラルに戻して生きている相手と楽しい時間を共にできるでしょう。
如何によく自分を知り治めているか、が大事です。自分に合った方法で自身を馴らすことに長じていきましょう。何せ人間は日々様々な影響を受けて変容するのです。これはもう、生涯にわたる大仕事。ひとりの人間として生まれてきた、それだけで誰しも、この大仕事を任される資格を有する替えのきかない大切な存在なのですよ。
だからこそ、赤ん坊は産まれてきたままではなく人間見習いとして社会に着地できるまでよく面倒見てもらうものだし、誰かが自分や他の誰かを害するのも無し、という世の中であってほしい。そんな風に思っています。
おととしだったかな、「みんなで未来に行くんです。」と投稿したのも今頃の季節でしたね。勝手な願いだって解っているけど、叶うことなら1人も取りこぼすことなく未来に運ばれてほしいのです。
世界に叡智と理性の光あれ。慈悲の心を養いたまえ。
愛してるぜ、人類!
2021.12.24追記 今(未明なのですが)投稿したら、ちょうどアメリカの方々が閲覧してくださっていたので。
10日に起きた竜巻、かなりの被害でしたね。お見舞い申し上げます。竜巻のニュース、地震や津波の災害写真と通じるところがあって報道の映像や写真を見ただけでとても辛く、被災された方々の健康が気にかかっていました。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りします。
皆様がいつもの毎日を取り戻せますようお祈りしております。心を込めて。