日々の覚書」カテゴリーアーカイブ

寄せる波 返す波

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  こんばんは。随分と間をおいてしまいました。投稿のない間もずっと足を運んでくださっていた皆様、ありがとうございます。事情を記しておく余裕も持てなかったこと、ごめんなさい。

 日本は今週末、衆議院選挙の投票日で既に期日前投票が始まっています。日本の場合、国家の政治の代表者である首相を直接選挙で選ぶシステムではないので、国政に対する意思を示す投票の機会は 国会議員を選ぶための衆議院選挙または参議院選挙 の2種類という現状です。
 選挙について何か投稿したくなっても投票が締め切られた後にしようと思っていたのですが…。たくさんの人がそれぞれの立場で「自分たちの国の現状についてもっとちゃんと考えよう、未来を良くするために投票しよう」と頑張って声を上げ始めたのを見て、自分は一度お詫びしなければいけないと感じました。というのは、私は投票の権利の多くを棄権という形で行使してきたからです。投票に行っても白票ということも多かったです。ただそれは、選挙後の分析においてよく言われてきたような「 無関心層だから 」ではありませんでした。
 「日本は外国の圧力でしか変わらない」、いつ頃から言われた言葉だったでしょうか。ならば外圧を呼び込んでやろうじゃないの、どれくらいまで投票率が下がったら「日本の選挙はあんな低投票率で成立するのか」という外国の発言が引き出せるかなーーー。ひとりそう思って、黙って棄権という形で意思を表してきました。私は長い間政治に対して、感謝する部分もある一方でとても深い失望と静かな怒りを抱いていたのだと思います。一応付記しておきますと、選挙についての考えを夫以外に話したことはなかったし、他者に棄権を呼びかけたこともありません。それと、国政選挙の場合は投票率や得票率が低くても選挙無効ややり直しにはならない決まりだったように思います。
 近年は特に虐待などの問題に思うところあって、再び有効な投票をするように行動を変えてきたのですが、もっと早く考えを変えることも出来たはず。私が行使できるのはたった1票に過ぎず、棄権や白票も1票の行使の1つの形ではあります。それでも、いずれかの政党や候補者に1票を委ねることで小さな波を風を呼び起こす一助くらいにはなったかもしれない。自我などちっぽけなものは脇に置いて、有効な票を投じる道についてもう少し考えてみてもよかったのではないかと自省しています。…私の場合、もしかしたら考えすぎて票を委ねなかったのか?
 とにかく今回の衆院選、次の日曜日には有効になる形で投票してくるつもりです。
 投票権があって、まだ投票していない方や投票するかどうか迷っている方は、時間の許す限りよく考えて決めてくださいね。自分のため大切な人のため、これから出会う大切になる人のため。現在のため、将来に向けて種を蒔くため。この国にどうあってほしいのか、その願いのために自分はどの道を選ぶのか、各自が答えを見つけられますように。

 最初の段落の話に戻りますが、オリンピックパラリンピックに湧いていたこの夏に、ある虐待事件が報道されました。その内容があまりにひどくてね。自我が始まって間もなく性悪説に傾きそこから性善説に、人間の人間性を信じる方向に心の軌道を自ら修正してきた私でも再び性悪説を支持してしまいそうな、凄惨な事件だったのです。守ってくれるはずの存在に裏切られ、幼くして恐怖や絶望に囚われたまま最期を迎えることになった命に、どんな言葉を思いを向けたらその魂が迷わないように救ってあげられるのか。ちょうど同じ頃、子どもも犠牲になった事件や事故の進展などの報道もいくつか重なって、私の中の厭世度はどんどん悪化していきました。自分だって他人様を批判できるような立派な人間ではないけれど。「(悪いほうの意味で)なんでそんなことが出来るの」という事件が多すぎます。増加しているのか、明るみに出るようになったのか…。それに手法がひどすぎるでしょう。人間をやめないでほしい。
 以前にも何度か書いてきたけど、これはもう、社会の歪みが放置されて行き詰まった結果のひとつのあらわれです。戦争も病もあらゆる貧困を生み、皺寄せはより弱いものへと向かう。親が幼い子どもや幼い我が子を守らず自らも加担して子の命を犠牲にする事件がこんなに頻発するなんて社会の末期ですよ。精神の貧困を本質的に解決するには長い長い時間が必要。取り急ぎ出来ること…という話は選挙前ですのでね、今日は控えさせていただきますが。
 そのような夏から秋の社会の流れの中で私の心は台風の時の海面のように烈しく波立っていたのですが、事故の関係の方々や今回の選挙に対する多くの方々の行動に前を向く力を分けてもらったように感じます。まだ、性善説を信じていられそう、かな…。
 未来を奪われた魂達もいつかやすらげるように、ひとりで怖がり続けることから解放されるように、と祈っています。

 心のガードを崩されそうになって私がもがいていた1ヶ月ほど、このサイトを訪れてくださる皆様は無事に穏やかに過ごせていたでしょうか。国や地域で違いはありますが、コロナは世界的にも少し落ち着きつつある状況? イギリスやブラジルで再び感染増の兆しがあり、ロシアがロックダウンを始めたとニュースで見ました。呼び方が違った気がする…と思って今確認したのですが、ロシアは11日間の非労働日、とありますね。国民は喜んで旅行して、代理店がウハウハって書いてある…。大丈夫??その精神は逞しくてある意味健全で、少し心配なのに見習いたい気持ちも湧いてしまいます。
 楽しむ心は免疫を活性化するという話もあるから、ロシアに限らず、感染を避ける基本は抜かりなく対策をして日常を楽しく彩ってくださいね。
 苦しみは病のみにあらず、それでもこの世界には善いこと幸せなことも同じくらいあるから。寄せては返す社会の荒波もいつか楽しめますように。
 
 

秋こそは穏やかであれ

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 お久しぶりです。皆様お元気でお過ごしですか?
 ようやく8月が終わりました…。これほど騒がしい夏はいつ以来だったろう。今年はじっくり思考の淵に沈む暇もなく次から次へといろいろなことが起こり過ぎて、波立つ水面をどう静めたものかと気持ちばかり焦って結局何も出来なかった感じでした。
 もう本当にね、前回投稿したころから世界でも日本でも水害や噴火が立て続けに起きていたし、身近なところでは福島県のコロナ感染者が急激に増えたりしましてね。9月に入ってようやく少し落ち着いてきましたが、渦中にいたときは不安でした。とうとうデルタ株が身近に迫ってきた現実に怯えつつも情報とは向き合い続けないといけなくて、じわじわとストレスが溜まっていくなー、なんて。そんな時期に大切な大切なノートPCのバッテリーが膨張し始めていたことに気づいて右往左往したり。昨年から今年にかけてだったか、日本で半導体工場の火事が相次いで、自動車など様々な物の納期の見通しが立たない時期があったのですよ。もう8ヶ月くらい経過したのだから回復したかと思ったらやはりまだ品薄状態は続いているらしくて、今もまだ膨張PCを使っているのです。コワイ。コロナ禍においてこのシンクロニシティ(どちらも熱を下げたい)は何なのよ…。
 悪いことばかり目を向けるのは良くないですね。納期を待つ間にまさかのWindows11のリリース日を迎えるという希望(?)も見えてきました。10がラストナンバーじゃなかった!とりあえずノートPCが動くうちに、スタンドアローンにしてある古いPCのLinuxを現行版にしておこうかな。溜息。。。
 
 あ、溜息と言えば。
 溜息が出ちゃう、そんな時、皆さんはどうやって気分を切り替えてますか?私は昔、気分の切り替えというものがもう本当に下手で…。沈んでいる時もすごく体調が悪い時も母が「こっちの気分が悪くなる」と怒るので笑顔でいなくてはならなくて。それで、自分の感情をいつも粗末に扱っていたと理解できた現在、溜息が出てしまった時にしているのは、 溜息を(密かに)つき直す ことです。また解りにくいことを言ってしまっている?
 溜息が出てしまうのは仕方のないこと、体と心の自然な反応だものね。そこで溜息を吐き直すというのは、感情の主導権を自分の意識の下に取り戻すためのフラッグ行為です。「次の溜息ひとつで自分をフラットにする」と思いを定めて静かに息を吐き切る。そして静かに鼻で息を吸い込む。吸い込んだ息が目の奥を通り抜けて脳に届くことをイメージしながら、ゆっくりと。(密かに)というのはふたつ目の溜息で周りに心配かけたくないじゃない?というせめてもの思い。一連の動作が終わる頃には呼吸が静まり、溜息が出てしまった状況に対して少しは受容する余裕が持てます。・・・と断言したけどこれは私の場合はという話。万人に有効かはわかりませんが、若い頃の私のように気分の切り替えで悩んでいる方はどうぞお試しあれ。
 
 さて、そんな話をしているうちに夜の12時を回ってしまいました。早く眠らなくては。夫がコロナワクチンを打ったので副作用が出ないよう出来る限りのケアをしていたら、自分の鼻と咽喉に風邪のような症状が出てしまったのですよ。予想して然るべきだったよね、と我が身の情けなさにげんなりしながら同じケアをして2日で回復させ、今のところ持ちこたえています。自分の接種の番が思いやられる…。きっと副作用出るだろうな。夫の2回目が済む頃までに自分が打つか打たないか結論を出さなくてはいけない。接種を希望しても問診で無理と言われる可能性も覚悟しておかないと。
 読んでくださっている皆様はワクチン接種されましたか?どちらであれ、皆様とご家族をはじめ大切な方達が健やかでいられることを願っております。
 
 

響きあうもの

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 おはようございます。暑さと台風の心配で4時に目が覚めてしまいました。皆様は健やかな睡眠を取れているといいな。そのまま眠りなおすこともできたのですが、ネットで台風情報のチェックをした時にニュースの見出しに放っておけないものを見てしまいまして。読んで、感じて考えて、今こうしてPCに向かっています。

 そのニュースは、オリンピック競泳のアメリカ代表シモーヌ・マヌエル選手が「試合で負けた直後のインタビューを強制されるべきではない」とTwitterに投稿したというもので、私が読ませてもらったのはAFPの記事をもとにした時事通信社の日本語版です。
 マヌエル選手の投稿したそのままのニュアンスを知りたくてTwitterも拝見しました。英語ムズカシイデス…。でも今ここ(公共の場所)に言葉を紡ぐにあたって、ニュースでは伝えきれない単語のひとつひとつまで目にしておきたかったのです。6月の投稿でアスリートの大坂なおみ選手のインタビューの件に触れさせていただきましたけど、大坂選手が(私に)起こした波は、マヌエル選手も以前から投げかけていたとてもセンシティブな問題。彼女たち自身がその波に飲み込まれてしまわないように、そして全体として良い方向に流れていけるように願っています。
 
 それで、説明を省いて結論を言ってしまうと
人間も進化しているなーって思いませんか!!?」。

 早起きでハイになっているわけではなくて、本当に。アスリートに対する試合後のインタビューの歴史を調べたのだけど、試合直後の、というのはやはりテレビなどの放送と密接に関わっているという指摘は的を射ているように思えます。私は今回のことで調べてみるまで、1世紀くらい続いている伝統なのかと思っていました。
 情報の鮮度という概念は基準のひとつとして確立しています。が、問題になっている「試合直後の」「敗戦側の選手」へのインタビューにおいて情報の鮮度が必要かという問いには、視聴者の1人という立ち位置の私はNOですね。勝った側であっても、すぐに話せる場合も身だしなみを整えたい場合もあるはずで、どちらの立場にせよ、話せる時話したい聞いてほしい時期に至ったら話せばいい、そう思います。
 どれくらいの時間が適切かというのは、試合の意味や内容、選手個人の内面に抱えるものなど、多岐にかかわるのでなかなか決められないでしょう。その日のうちに話せる場合もあればシーズンが終わってから振り返るという場合もある。引退してから今だから話せる解るという選手や試合もあると思うのですよ。本人が今は話せないというならそれは話せないのです。
 他者に明かそうが明かすまいが、選手はどんな試合も必ず何度も思い起こす。分析する。彼らのアスリート人生にそれらが反映されていくのを私達は年数をかけて見届ける。自らを曝け出すことでファンの支持を得てモチベーションに昇華する選手もいれば、黙々とストイックな積み重ねを大事にする選手もいる。様々なタイプの選手がいる、それでいいじゃないですか。
 
 ただひとつだけ忘れないでほしいかなと選手の皆さんにお願いしたいことがあります。それは、各競技の協会等が会見を設定している場合は、マヌエル選手の言葉に出てくる「一部のメディア」とは違う思惑もあるかもしれない、という目線です。私が言うのも大概余計なお節介ですけど。
 かもしれない、であって確定ではないという前提で捉えていただきたいのですが。多少無理を強いることになっても「公人」として振舞わねばならない会見の場所に身を置くことで心を制御してほしい、自分と向き合う時間も大切だが、意志を以て自らの意識を外の世界に切り替えることも身に着けてほしいという、口幅ったいけど親心のようなものが協会主導の場合の会見の歴史の始まりにはあったのかもしれないね?と。(私の言葉、イソップの蝙蝠みたいに見えるでしょうね、ごめんなさいね。そのように考えてみることもできるなぁ、って思ってしまったのです。私は自分も含め人間全般に甘い。)
 資料でも残っていれば推し量ることもできそうですが、議事録などにそういう機微は書き込まれないのが普通ですし、…どうしたらこの絡まった糸をほどけるのだろう。協会と選手、同じ競技に関わっている人達がこじれてしまうのは哀しいことです。
 
 さて、「進化しているな」という突飛に聞こえる私の結論について少し説明を。試合後の会見について全般的に起点をいつごろと見るかというのはひとつ大きな問題なのだけど、社会学の論文ではないし大雑把な捉え方をすることをお許しください。
 私が幼い頃にはテレビや新聞で「選手は硬い表情のまま無言で競技場を後にした。」こんな表現が使われることも多かったように思います。1990年代には試合中継の最後のインタビューというのは結構見かける光景になっていたように記憶していますので、80年代から90年代に起点があるものと仮定すると2021年までに30~40年の時が流れたわけです。長いですね。
 最近の30~40年というと日本の社会においては閉塞感の漂う成長が止まった時代とも重なる期間なのですが、スポーツの分野では日本も世界も同様にウェア、シューズ、用具、様々なものがその素材から革新的に向上し、アスリートの能力を最大限に引き出すための型も熱心に細密に追求して前に進んでいたようです。そういったハード面でのサポート、またスポーツ医学やスポーツ理論の研究にも支えられて、努力を重ねたアスリート自身の身体も能力も飛躍的に向上しました。この辺りはデータを追うことができる客観的な事実ですね。
 アスリート自身に関わることについて少し掘り下げますと、「より強く」にかかわる身体の向上は数字で測れるだけでなく例えば大きな部分の骨格や筋肉としてその成果が目に見える変化として反映されやすいので、本人以外も分かりやすい伝わりやすいというのはあると思います。一方で「より速く」「より精確」にかかわる能力は脳の指令や神経の伝達に因る部分が大きいので、その向上は反応の速さの測定など数字で測ることは可能であるものの、「より強く」の身体の変化と比較すると繊細な変化であり同じような鍛錬を積んでいる者以外にはどこを見れば判るかというのが若干伝わりにくいと思います。思います、の羅列でいい加減な話を展開している印象をネット上にばらまいている不安。でも人間の目というのは存外高性能で、微細な変化やパッと見ただけの情景を細かく拾ったりしているはずなのですよ。脳は普段、オーバーヒートしないことを第一義に掲げて、細かすぎる情報は処理の必要のない情報としてどんどん圧縮して片づけていく。忘れ物をした時にそれが最後にどこに置かれていたかという視覚的な記憶がパッと思い浮かんだという体験をしたことがある人は多いと思いますが、あの体験は、出かける前に要らない情報として片づけられた記憶が忘れ物に気づいた時点で必要な情報として改めて読み込まれた、ということです。かなり遠回りな話運びをしてしまいましたがアスリートの話に戻しますと、トップアスリートの領域に至る人達は練習や試合において脳をブーストして、より多くの情報をONの状態にして働かせているのでは?というところに辿り着きたかったのです。
 30~40年前のアスリート達も当時の人類の中では素晴らしく進化した人達と推測しますが、前述したように多方面で技術などの研究開発が進んだ結果、現在2021年のアスリート達についても彼らより更に脳や身体を使いこなせるように進化してきたのではないか、と推測しています。そうしてみると、大坂選手、マヌエル選手、多くのアスリート達が声を上げ始めた内容について得心できる気がするのです。脳のブーストってきっとすごく大きな負荷がかかる状態。PCがある時代でよかったなと思うのだけど、動画の再生などちょっと高負荷な作業をするとPCのファンがブアーーーとすごい勢いで回るじゃないですか。だから作業の間には休ませて内部の温度が下がるのを待ったり、ね。アスリートの皆様の足元にも及ばないだろうけど、私もサイトに投稿した後や料理を作り終えた直後に「もう何もできない」と 無 になる日があります(虚無ではない)(毎回ではない)。程度の差はあれ、多くの人がそういう体験を持っているのではないかな。

 つまり試合後って、きっと本当に頭真っ白というくらい全てを出し切っているのではないでしょうか。一方的な会見ではなく会話することが求められる場所に向かう前に自分を取り戻したいというのは当たり前のこと。同じ人間として当たり前の敬意を持ってほしいというのはそういうことではないかなと、老婆心から勝手な想像をしてみました。
 
 そういう思考の流れで私は「待ってあげれば?」という意見なのですが、「一部のメディア」と呼ばれてしまった人達や番組や紙面の構成を決める人達にもそれぞれ都合はあるのだろうし、無理強いはしません。お互いに少しずつ譲り合って折り合いがついたら、それが1番いい形だよね。
 みんな頑張れ!まるく収まれ!