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8年前 拾遺

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唐突ですが政治的意図は全くありません。(最後の章で出てきたが最初に掲げておくべきと思いまして。)


「8年前」をお読みいただいた方に改めてお礼を申し上げたい。中には「後付けのつなぎ合わせでは・・・?」と思われた方もいらっしゃるかもしれないが、発電所等について、311発生当時私が知っていたことはTVや新聞のニュースの受け売りであり、福島県民ならば大方が知っていても不思議は無かったことばかりである。福島県民が「8年前」における発電所のくだりを読んだら、みんなが知っていることを「僕知ってまーす!」と声を上げる小学生の作文にしか見えないだろう。

事実関係の把握は各自にお任せするとして、少し補足しておこうと思う。
他に私が見聞きしていたことと言えば、2000年7月から2002年9月にかけて県内における報道の扱いが少しずつ変わっていったこと。佐藤栄佐久知事の「県民と県内で働く人の生命と健康を守るのが知事の職務だ」という発言はこの期間のものだっただろうか。とするとその風は知事の周辺が起こしていたのかもしれない。ニュース番組の最後にごく短く伝えられていたものが、時系列を整理してこれまでについて紹介したり問題を提起したりと「報道」され始めたのだ。(個人的なことだが)態度も頭も軽い若者だった私はそれらを見ていて、原子力発電所についてもっと前からしっかり考えていなければならなかったと反省した。以来、時間が許せばニュースだけでなく国会中継も見るようになっていた。
他には原子力発電所周辺の「怪談」がそれ以前よりも聞こえてくるようになったこと。このことは内容の真偽にかかわらず、しっかり向き合わなくてはと思った私のような県民や疑問や反対をそれまで胸にしまっていた県民が多かったことの表れだったと思う。

2002年9月から2006年7月、福島県内で原子力発電所は稼働していなかった。それでも計画停電なんて311まで聞かなかった。覚えていないだけかもしれないが。
そういえば、このころはよく丸ごとの魚を調理していた。福島県は海の幸にも山(陸)の幸にも恵まれていて、ここに住んでいて本当に良かったと思えるようになってきていた。
「県民と県内で働く人の生命と健康を守るのが知事の職務」という言葉には内面を覗き込んだ響きがあった。だから政治家のリップサービスというだけではなく、ある程度本心からの言葉だと信じている。そのように明言してくれた知事を戴いていることをとても幸せだと心強く感じていた。たぶん生まれて初めての、安心して眠れた貴重な時期だ。悪夢も予知夢もこのころは全く見なかったのだから。

2006年7月、佐藤栄佐久知事は東京電力勝俣社長と面会して、福島県内の原子力発電所の再稼働を許可した。当然、県内では失望の声が大きかった。判断の背景にどんな計り知れない事情があったのかわからないが、私もとても残念だった。
他県では知事の名前に憶えが無くても「0円収賄」という言葉なら覚えているという方もいらっしゃるだろう。疑惑追及の矛先が知事にも向いたことが報道されたのは許可後だった。単純に、この辺りの経過は将棋などの定石のようで興味深い。
佐藤栄佐久知事は2006年9月に辞職し、10月23日逮捕された。
この先、誰が福島県を守れると言うのだろう。
おりから開かれた国会では27日、共産党の吉井英勝議員が原子力安全委員会に対し原子力発電所の安全運用について質問を行った。吉井英勝議員は12月13日にもこの件を追求している。この日を最後に、私は国会中継を見るのをやめた。

佐藤栄佐久知事の後、2006年のうちに和歌山県と宮崎県の知事も逮捕されていた。国内で何が起こっているのかが判らず、とても不安な日々だった。
捜査の経緯はずっと追っていた。幾つもの疑惑が取り沙汰され幾つかは消えていき、1年が経過するころにはほとんど有罪が確定しそうな論調だった。福島県内の原子力発電所は新たに選出された佐藤雄平知事によって次々に再稼働していた。
「受取額0円で収賄が成立する」その不可思議な言葉自体が受け入れがたかった。なんでも有りになってしまう魔法の言葉に見えたのだ。それが是となったら有罪は3県の知事だけで済むはずが無い。日本はどうなるの・・・。私は混乱と悲しみと絶望に支配されかけていた。

2007年の秋の終わりになんだか妙に疲れやすくなっていると気づいた。思い出してみると3か月は計っていなかったのでとりあえず体重計に乗ってみると、夏から20%体重が落ちていた。ぎょっとして毎日計っていたら2週間ほどの間に夏から25%の数字まで落ち込んでしまった。この時何をおいても病院にかかるべきだったと思う。体に異常が起きていて心も危険な状態だった。
ペシミストの老人のおもてをつけた私は、その後も減り続ける数字に慄いて何もかもどうでもよくなってしまった。原子力発電所は再び動き出した。子どもを育てることは叶わなかったけど夫に少しの影響を残すことはできた。生涯応援し続けようと入会した俳優のファンクラブの更新を放置してしまった。また悪夢を見るようになっていた。もう何も望まない。体が動く限りは食事を作り、いつかロウソクの様にふっと消えてしまうことを夢見よう。
もはや私は国の在り方や言葉そのものが信じられなくなっていた。家族の思いだけで私を救うには不信感があまりにも大きく育ち過ぎていた。
2008年8月、受け取り0円のまま1審で有罪との判決が出された頃には、私は階段の昇り降りができない日もある状態になっていた。他の誰が悪いわけでもない、私自身がそこまで自分を追い込んだだけだ。人間にとって住んでいる場所(自然環境、住居、家庭、自治体、国、世界)への信頼がどれほど心身に影響を及ぼすか、私はこれ以上はないというくらいに身をもって知った。その自分が2009年にちょっとした変化によって生き延びてしまった後、2011年にあのような状況に遭遇するとは、である。

事件は2012年に最高裁判所で刑が確定して終わりを迎えた。裁判官、検察官、弁護士は言葉のプロの集団だ。その彼らが一見不可思議なレトリックを押し通して有罪にしたからには相応の確信があったのだろうと、理解することにした。そうしなければ私の中で秩序が保てないからだ。
佐藤栄佐久知事には今も感謝している。たとえ一時期であっても安心して眠ることができて本当に幸せだった。この思いは生涯変わらない。政治的な意図は全くない。佐藤栄佐久知事という人には日本人にしてはスーツ姿が様になるおしゃれなおじさんという1面もあったのだ。この気持ちはタレントやスポーツ選手にファンレターを書くのと同じようなものなので、目くじらを立てずに放置してくださるとありがたい。
蛇足だが「8年前(10)」に綴ったように私の記憶には2000年から2010年の間に数年分の欠落があった。実は今回まとめた内容こそ、この欠落していた部分なのである。
311は2011年に起こった災害だが、個人的には2000年から長く続いたひとつの事象とも言える。記憶が欠落していた間はちょっと魂が欠けてしまったような、虚ろな苦しさを覚えた。
自分を取り戻して安定した今、8年前からようやく1歩、前に進める気がしている。


8年前(10)14日~20日、その後

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14日に夫の無事を確認した後の数日間については綴ることが難しい。思い出せることもあるのだが、借り物の記憶のような、自分の記憶にしては遠いところにあるという感触なのだ。知人の消息、市内沿岸部の映像、夜の闇にぼうと光る燃料プールの映像。給水所でマナーの悪い人に会ってしまったこと。記憶を掘り下げようとすると真っ黒な淵をのぞき込む感じで、先に進むことができない。
記憶といえば、私の記憶には2000年から2010年の間に数年分の欠落があったことが昨年夫との会話で判明した。そのときは夫に更に遡ること1年、今から2年前に同じ会話をしていることを指摘されてようやく一部、自分のものと確信できる記憶が蘇った。しかし肝心なところはひとつも出てこなくて、何かよほど耐え難いことがあったのだろうという話になった。
記憶にまつわるこの癖から考えると、夫の無事を確認できた14日の夜以降私はとても深刻に絶望したのだと思う。どうして子どもがいる家族だけでも避難させてあげないのだろうと夫に泣きついた会話の記憶が残っている。その後は震災のことや発電所のことをあまり話さなくなった。かといって他のことを話す気にもなれなかった。足の下でも海でも続く地震。原子力発電所。睡眠不足。栄養不足。希望の見えない現状。もう耐えられないと思った。手負いの獣のようになった自我を社会から隔絶し小さく小さく縮めて丸め、夫のそばでじっとしていた。

18日の記録によると夫が仕事に行っている間に屋根裏の点検をしたとあり、身体的には意外とアクティブに過ごしてはいたようだ。水道が復旧した記録もあり、少し気を取り直した様子も見られた。水道、ガス、電気。日常に還るためにどれも欠かせないものだった。

20日はしっかり思い出せる記憶がある。スーパー(マーケット)が営業を再開し始めたので、食料を買い足しに出かけたのだ。その前数日間のことがあったので、靴の紐を結び玄関を出る前に自分の内側をきびしく点検した。神経が過敏になっていないか、攻撃性が高まっていないか、逆に公共の場で泣いたりしてパニックの元になる危険はないか。どんな突発的な状況でも自分を制御しきる自信が持てるか。goサインを出す自分に更に問いかけた。その「大丈夫」は浮かれた自信に基いていないか。地に足は着いていたし心も鎮まっていた。
それでも2時間までと決めた。それを越えるようなら食料調達を達成できなくても家に戻ると誓って外へ出た。
被災してから初めての1人での外出だった。行き先はスーパー。地震が起こる前の日常の行動に少し近くて、安堵と悲しみを覚えた。
非常時に営業を再開してくれたスーパーの皆さんの努力には今も心から感謝している。臨時の対応として、一度に入場できる人数と購入点数には上限が設定されていた。店の外には普段は見られない大行列が出来ていた。左右を見渡しながら、居並ぶ人たちの表情をそっと目の端に映していった。みんな疲れていた。憔悴という言葉に当てはまりそうな人も見受けられた。それでもみんな秩序を守って列を作っていた。顔は少し疲れているが明るめの口調で話す子がいて、逞しくまた微笑ましく思った。抑えた声のとても穏やかな口調で家族に語り続けるご婦人がいた。そうすることで彼女は家族と話しつつ周囲に穏やかなトーンを拡げているのだった。意図してなのか無意識なのかはわからなかったが、それは集団の中にいる時に大切な人達を危険に晒さないための知恵だ。心の中でそっと彼女に手を合わせた。反抗期継続中を主張するような服装の若者たちが家族と共に行儀よく列に並んでいるのを見たときは、「この街は大丈夫」と涙腺が緩みかけた。ここで泣いたらゲームオーバーだ。まだ家に戻るわけにはいかないと、深呼吸して涙を引っ込めた。
1時間近く待って、順番が来て入った店内は照明が控えられていつもより暗かった。BGMも無い。それでも十分明るかった。店側も客側もただ生きようとしていた。清冽な光が静かに満ちて、厳かと言っていいようなちょっと不思議な空間が形成されていた。
丸ごとの大根とキャベツ、人参。肉はいつもは買わない大きいサイズのパック。卵。デコポン。心許無くなっていた米と既に切らしていた味噌。他。米が重かったので上限の数より少ない買い物で終わりにした。レジ担当の店員さんたちがひとりひとりに「がんばりましょう」と声をかけていた。私も店員さんたちに同じ言葉とお礼を伝えて店を出た。
その2年前には昇り降りできない日もあった階段を、10㎏の米を持ってあがった。息が切れ背骨に力が入らなくなった。地震に耐え続けた体に疲労が蓄積しているのだった。病人やお年寄りをはじめ虚弱な人はどれほど堪えていただろう。

福島県内では、文部科学省と福島県知事の要請を受けて長崎大学の放射線医学の専門家達が医療や啓蒙のための活動を始めていた。彼らが来るまでは発電所と立地市町村を除くと福島県浜通りは腫物のように扱われていた。それだけ原子力発電所の事故を深刻に受け止めていた人が多かったということだ。だから、ありがたいことではあった。しかしそれは同時に、この先、福島県民はばら撒かれた放射性物質と共に生きていくと決定づけられたことを象徴していた。
私の心は完全に折れてしまった。もちろん彼らのせいではなく積み重ねられた現実に、である。

あの日から8年が経った。サイトで311に触れるのは来年にしようと考えていたのに、3月11日の夜になってから、やはり平成が終わる前に一度向き合っておきたいと文章を綴り始めた。信じたり泣いたり励ましあったりしながら、みんな生きていた。避難所に行った人や復旧作業に従事してくださった方からは別の形の311を聞けることだろう。とても狭い世界で進行した私の体験は多面体の1面に過ぎない。
幹線道路が補修され流通が復旧してくるにつれ、街は日常を取り戻していった。県道や市道の中には2011年末近くまで補修の手が及ばないところもあった。数が膨大なうえ時折大きな余震もあって、直しても直してもなかなか進まなかったと聞いている。
スーパーの陳列棚にところどころ見られた空白も、4月末にはほとんど目にすることが無くなった。数年後の311に、慰霊の祭壇横に「あの日の店内」の写真を小さく掲示してくれた店があった。商品が散乱して床が見えなくなっていたり天井の建材が斜めに落ちかかっていたり、あの混乱から立ち直って今なのだなと胸に迫るものがあった。
廃業を余儀なくされた会社等は本当にとても多くて、かける言葉が見つからない。新しく生活を立て直して、充実した現在と幸せを築けていますように。
街全体は様変わりした。建物が壊れてしまったから。被害を受けて地区全体が変わったところもある。何年、何十年かかってもいい、悲しみの地がいつか元気に子供が遊んだり家族がくつろいだりできる地になりますように。
そして、人。
改めて311とそれに続いた多くの事象によって亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたします。知らずに踏み込んではいけないと思うから、このような場でご遺族に安易な言葉はかけられない。自分の思いも他の人の思いも大切に、そして思いに囚われることなく生きてください。

日本は自然災害の多い国と教わって育ったが、311後の災害は規模も数もそれまでとは少し違ってきたように感じる。物や避難の手順、連絡手段などそれぞれ備えていると思うが、心身の備えも大切だ。目新しさなどない当たり前のことで恐縮だが、体を鍛えること、疲れを溜めこまないこと。体力に余裕があれば心の余裕につながる。心そのものを鍛えるより早道ではあるかもしれない。心に余裕があれば理解するのが難しい相手や受け容れがたい事態に遭遇しても、自分達には計り知れない背景があるかもしれないと待つ姿勢を用意できるだろう。
心の鍛え方と尋ねられると答えるのが難しい。日常生活のほぼ全てが心の鍛錬の場であることが視えている人も多いと思う。つまり心を鍛える種は常に身近にあふれていて、あまりにも多すぎて簡潔には説明できないのだ。これもまたよく言われることだけど、禅の考え方はとても参考になると思う。触れた事がないかもしれない若い人や外国の人にも伝わるようキャッチーに言い換えると、「ヨガは心と体に効く。禅は心と行いに利く」といったところだろうか。
新陳代謝機能が停止しない限り、人間は変わっていけます。311は未だ終わらず、災害は毎年のように起きている。日本だけではなく世界中で。次があったらなんて考えるのも恐ろしいけど、私もできることを深めていく。明日を信じて。
どんなときも誰に対しても、寛容さを持ち続け理性的判断ができる。そんな余裕を持てる社会をみんなで築けたら。それが311を体験した1人の心からの祈りです。


最後になりましたが。
無駄に長く読みにくい文章を根気よく読んでくださった方に感謝を申し上げます。
どうか、お時間があれば、他の方の311にも触れてください。私はとても小さな世界で生きている偏った人間で視野も狭い。ネットには写真記録などを多く残してくださっている方もいらっしゃるので、ご覧になるとまた違う311が見えてくると思います。様々な価値観に出会えますように。
最後までありがとうございました。


8年前(9)14日

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14日朝。
原子力発電所では前日から、消防車での注水作業が始められていた。確認したがやはり放水ではなく注水である。知識のない私には当時、地震による損傷が確認できないところに注水しても水が漏れていかないと何故考えるのか、膨大な熱量の物体に対してどの程度意味があるのかが理解できず、消防隊員を無駄に危険に晒さないで、と酷く胸が痛んだ。みんな避難すればそんなことしなくていい、もう少し安全に配慮して対応してほしい、そう祈っていた。2019年現在で俯瞰すると、あの作業はやらなくてはいけなかったのだろう。平常時の基準で計ったら100%論理的判断とは言えないかもしれない。それでも、あの非常事態で、私達と同じように(あるいはそれ以上に)関係者もショックを受けた状態で事態を何とか収めようとしたのだと今は思う。「当事者」だったのだから。彼らもまた、祈るような気持ちだったのかもしれない。
夫を送り出さなければならない時間が来た。前日は車中だったが、14日は完全に屋外で19時まで作業にあたる予定だという。笑顔を作ることはもうできず、無事に帰ってと言葉にするのが精一杯だった。

震災から4日目、非常モードで凌ぐにもそろそろ限界のはずだ。情報から少し距離を置こうと決めて、その日の午前中は大きな余震以外は情報を見ないことにした。
部屋中をあちこち点検すると内壁材と思われる小さな欠片がところどころ落ちていた。余震が起きても妙な軋み音が聞こえることは無かったが、やはり相当な負荷がかかっていたのだ。いつまで耐えてくれるだろうか。地震はいつになったら収まるのだろう。誰にも答えられないのだった。
食器棚は11日にガムテープでがっちり封印したままになっていたが、こちらは手のつけようがなかった。割れた食器を安全にゴミに出せるようにするための、蓋の付いた缶容器や破れない梱包材が足りなかったのだ。
11時40分過ぎに午前の作業を終わりにして、PCに向かった。
3号機が爆発していた。

考える間もなく夫に電話したが、混乱から完全に立ち直っていない回線事情でこの時に繋がるはずもなかった。災害時は電話よりメールというアドバイスを思い出し、焦って打ち間違えながら「すぐに建物の中に入って」とだけ送った。
液晶画面に表示されたのは「データセンターに蓄積」のお知らせ。絶望した。届かない。今すぐ届けてほしいのに。今でなければ間に合わないのに。祈っても焦っても、届かないものは届かないのだった。
爆発が起きたのは11時頃、40分の間に夫のほうから連絡は入っていなかった。夫は無事なのか、具合が悪くなって屋外で倒れてしまったりしていないか、知る手段は断たれていた。

爆発の映像をもう1度見るのは苦しいことだった。それでも、細分漏らさぬようにしっかりと見直した。爆発の力がどちらの方向へ解放されたか。煙はどの方角に流れたか。
煙を見て、気が付いて気象情報を調べた。発電所から夫の現在地へ、風向きは微妙だった。風の強さから時間の猶予はどれくらいあったか考えた。爆発直後に情報が伝わっていれば屋内に退避できているかもしれない。
夫の様子が分からないまま刻一刻と時間が過ぎていった。爆発時3号機周辺で注水作業をしていた人たちが負傷していた。慰められるような情報は皆無だった。次第に心が凍り付いていくのを感じながら、私は機械のように情報を求め続けてネットを彷徨った。
夫は予定より少し早く夕方に帰宅した。昼間に泣き尽くしたと思っていたのに夫の無事な姿に涙が止まらなかった。