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8年前(5)11日夜~12日午後

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11日の夜のうちに話し合って、避難所に行かないこと、私は1人で歩いて出かけないことなどを確認していた。
少し意地が悪いと思いながら「一応訊くけど、仕事も人間関係も捨てて他県へ避難する?」と質問もした。日本社会ではこういうことはあまり言葉にしないのが慣習だ。暗黙の了解あるいは察しの文化というものだ。倫理観、ものの考え方の半分くらいを西洋の文学や哲学に頼った私は中途半端に欧米化していて、こういうとき敢えて言葉ではっきりと確認してしまう。「わかるだろう?」は齟齬を生みやすい。増して非常時においては小さな齟齬もトラブルの元、命取りになる可能性もあるのだ。固有の文化は尊いものだ。それはそれとして、明言することも時には大切だ。
夫が割と軽く(明るく?)「しないよ、大丈夫だって」と答えたものだから、原子力発電所の状況を一緒に確認したことを思い出してもらい「時間的にはもうどうにかなり始めていてもおかしくないけど、それでも?」と重ねて質問した。少し考える目をした後、「そこまで危険となったらさすがに避難命令があると思う。だから明日(12日)は仕事に行く」と夫は答えた。妻こそ避難すれば、などと質問を返してきたので、夫とぬいぐるみのクマたちといる場所が私の『家』だと答えておいた。これで2人とも自らの意志と責任において自宅にとどまることが決まった。

どんな時でもしっかり眠れる人は、心身が強く健やかなのだと思う。夫は激しい余震の中、階段で地上に降りたために脚が攣り疲労を感じたらしく、23時をまわると就寝した。私は原子力発電所が気になって仕方なかったのだが、眠っておかなければという義務感から24時前にはやはり横になった。神経が張り詰めていて、地震で何度も目が覚めた。大きな余震が来ると起きだして地震情報を確認し、また眠った。
12日の明け方、一緒におにぎりとお茶の簡素な朝ごはんを摂った。夫はいつもよりずっと早く家を出た。見送りながら、出征を見送った人たちの気持ちと似たものを今感じているのかもしれないと思った。夕方また夫と、お互い無事に会えるだろうか。
部屋に戻り、PCで原子力発電所の情報を探した。原子炉の温度を伝えてくれているサイトが紹介されていたので、散らかった物を分類しながら時々確認した。見てどうにかできるものではなかったが、そこにある危機を見ないふりで放置できるほど自分は強くないと知っていた。逆にどんなに怖くても、状況が見えていれば我慢できる場合もある。原子炉の温度はじわじわと上がり続けていた。
気になっていたことはもうひとつあった。福島県の沿岸部の様子がまったく入ってこないのだ。津波のニュースはどの媒体でも得られたが、ほとんどが宮城県岩手県、茨城県などだった。被害が出ていないはずがない。だがYouTubeなどを探しても福島県の沿岸部の被害がわかる映像画像が見つけられなかった。
インターネットは使えても電話やメールはつながりにくかった12日の午前の段階では、居住地の身近な情報はミニFMが人脈を駆使して入手し伝えてくれた音声情報が頼りだった。「海沿いの地域では壊滅的被害を受けた模様」「詳細は不明」、きっとそれぞれに大切な人たちを思いながらだったろう、替わるがわる伝えてくれたDJさんたちの、真摯な声の色、祈りの響きを私は忘れない。

昼頃、TV局が居住地の災害対策本部や街なかの避難所の中継に入ってくれた。映像でようやく見ることができた地元の人たちはとても疲れた様子で、避難所には行かないと決めたことを少し申し訳なく思った。だが2009年には死に体だった私はようやく回復してきたところで、地震前の1年ほどの間は大きな工事が近くで続き、騒音と振動によって心身がひどく弱っていた。生死の境が淡くなって、1月末ごろから悪夢に叫ぶことも度々あった。それで、非常時のこの時、集団の中に混ざることは周囲にとっても自分にとってもリスクが大きいと判断したのだ。原因は自分にあり、行かないと判断したのも自分だった。望むことのすべてを叶えられる人などまずいない。
TV局による居住地の中継は、街なかだけですぐに終わってしまった。「中通り(県内の別の地方。福島県はそこそこ広いのだ)からアナウンサーまで連れてきたにしてはあっけない」と感じるくらいには短い中継で、なんとなく違和感を覚えた。
海沿いはこの後取材にまわって夕方ごろの県内ニュースで放送されるのかな、と作業に戻った。

結果から言うと、その日海沿いのリポートを見ることは無かった。
午後、福島第1原子力発電所1号機が吹っ飛んだ。こんな書き方をするともっと穏やかな言葉を選べないのかと叱られそうだが、素人目にはやはり「吹っ飛んだ」以外の何物でもない。(吹っ飛んだのは1号機ではなく1号機建屋、と書くのが正確らしいことを補足しておきます。発電所のたどった詳細についてここでは言及しません。興味を持たれたかたは、専門的な知識を有する方の記録で各自補完してください。)
いつもなら、無駄に終わるかもしれなくても情報を集め、思考を重ね、当面と今後の予測を立てる局面だった。地震が発生した時だって最初は恐怖に潰されないよう思考し続けた。でもそれは。画面の向こうで展開していたそれは、長年の習い性をも軽々と吹っ飛ばしてしまった。頭の中も心もぐちゃぐちゃになって、ぼう然と発電所の映像を眺めた。

のろのろと再び思考を立ち上げたとき頭に浮かんだのは「終わった」という言葉だった。


8年前(4)11日夕方~夜

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「この文旦の味はきっと一生忘れないだろうね」と、夫と小さな笑みを交わした。無理に笑えば心が壊れてしまう、それでも無理のない程度には笑っていないと恐怖に負けてしまう。綱渡りの状態。自分たちは被災したのだと漠然と受け入れた。
阪神や中越の地震の光景を思い出した。写真や映像でしか知らなかった被災者の現実が今や目の前にあり、さらに続くのだ。今の状態のすべてを理解できなくても、浮足立ってはいけない。わかってはいたが、終わりの見えない数分おきの揺れが徐々に精神を疲弊させていく。いつまで理性を保てるだろうか。いつまで保てばいいのだろうか。

夕闇が迫るなか、水道が止まった。「ついに来たか」と2人で苦笑した。
ガス(都市ガス)は使えないのでカセットコンロを棚の奥から引っ張り出した。鍋文化のおかげで、少しだがカセットガスの買い置きがあった。
電気と通信ラインは生きていた。暗闇、空腹、情報ゼロで、1人きり、夜を迎えずに済むことを感謝した。
片づけは、やはり進まなかった。数分おきの地震のたびに私が空白状態になって停止してしまうので、夫も早々に見切りをつけて「片づけは今日は無理だね。体と頭を休めよう」と言ってくれた。安全なゾーンと避難ルートを確保して、当座の食事を考えたり、避難するとき持っていくものをまとめたりして11日の仕事は終わりとした。
水を貯めるときに準備した炊飯器のご飯が炊きあがったので、鶏胸肉を焼いて前日の残り物の和風のポトフで夕飯にした。温かいご飯がじんわりと力を与えてくれるように感じられた。

TVはずっとNHKのニュースをつけていた。
ひとつ気にかかることがあったのだ。夫が帰ってくる少し前だったろうか、「福島第1原子力発電所が全電源を喪失、第2原子力発電所は連絡が取れず」という情報をラジオで聞いていた。伝えられた内容は理解できたがその情報が示す意味がイメージできなかった。
電気が通っているから今ネットを見ているのに、原発には電力が行っていないという。その状況はすぐに判明した。原子力発電所と送電網をつなぐ大動脈のような部分で鉄塔の倒壊か何か(不明瞭で申し訳ない)があって送電が途絶えてしまったという情報が見つかって、ひとつ理解が進んだ。
だがまだわからなかった。「発電所が停電するとどうなるの??」
糸口もつかめないまま検索すると「チェルノブイリ」の単語がいくつもあらわれ、「えっ?」と思わず声が出た。地震でほぼ使い尽くしていたためか恐怖よりも戸惑いが大きかった。あれだけの地震に遭遇して大きすぎる余震もまだ続いていて、沿岸部では巨大津波の被害が出ていて、さらにチェルノブイリ的危機が迫っているかもしれないって?冗談?
検索結果の数行を読むだけでも冗談ではないことはわかったが、その先を今読むことはできないと思った。地震だけでもショックや恐怖の負荷が限界に近づいている。シリアスなチェルノブイリの記録と向き合って消耗することは避けたかったのだ。
ラジオやネットの情報から「電力供給により冷却が再開できればOK」「間に合わなければチェルノブイリ」と大雑把な理解にとどめておいて、吉報を待った。

時間が過ぎるということはその分破滅的状況に近づくということ。1時間。2時間。片づけ(ようと)しながら、荷物をまとめながら、夫と話しながら、注意の一部はずっとニュースの音声に向けていた。だが続報がいつまで経っても入ってこない。
夜7時枠のNHKの全国版ニュースでも冷却再開のニュースは流れなかった。史上稀なる規模の地震で東日本全域が被災地域、加えて津波である。ニュースとして伝えたい情報が膨大な量だったのだろう。記憶が間違っていなければ、最後のニュースは千葉の湾岸で起きていた化学的な火事だったと思う。地盤が液状化して消防車が近づけないという、そちらも確かに大変な事態のようだった。
遅い時間になってからようやく、冷却再開の見通しは立っていないという最新情報と解説が放送されたのだったか。しかし多くの人が視聴したであろう19時枠のニュースにおいて、地震と津波の情報と映像を繰り返し今後も続く可能性があると何度も注意を促す一方で、同時に進行している東京電力の原子力発電所のチェルノブイリ的危機については触れなかった。その姿勢が危機の深刻さを確信的に予感させた。


8年前(3)11日14時46分~夕方

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本震と認定された揺れが収まった後の私は文字通り、何も手につかない状態だった。目立った怪我もなく意識もある。だが意識の表層を思考が他人事のように流れていくだけなのだ。
急に驚かされたりしたときに体中の筋肉がギュッと一瞬強張る。私の首筋から脳(実際には頭皮だろうが)もガチガチに強張っていて、正座していた脚の痺れが抜けるときのような空白感があった。

茫然自失のまま、情報を得なくてはとラジオを探した。幸いなことに、いつ購入したものだったか災害用ラジオをすぐに取り出すことができたので、震えが止まらず力も入らない指先でどうにか充電用のハンドルを掴んだ。地元のラジオ局、NHKラジオ、ミニFM、どこでもいい。この状態が何なのか、知らなくては。そう思って必死に充電しチューニングを合わせたはずだったのに、情報を得るより前、人の声が聞こえてきた時点で私の涙腺は決壊した。
離れた場所にも生きてる人がいた!大丈夫、世界は終わっていなかった!
ふわりと心が緩んで温かくなった。緊張して冷え切った体は通常どおりとはいかなかったけれど、とりあえず動けそうな気がした。

携帯電話は不通だった。家族については、ミニFMで付近の被害と避難の状況が聞けたのでおそらくは無事だろうと思われた。ラジオでは津波の警報も知らせていて、高さの予測がどんどん上がって津波としてはちょっと信じられないような数字の後「予測不能とにかく海から離れて!!!」に変わるまで、そう時間はかからなかったように記憶している。
私はというと、海のそばではないし、家も傾いてはいなかったので散乱した物をなんとかしようとしたのだが、地震と津波の情報が気になるうえ、休みなく襲ってくる余震のたびに玄関近くまで逃げては恐怖に固まるの繰り返しだったので、片づけはほとんど進まなかった。食器棚の中は後回しにして扉をガムテープで固定し、床に散らばった割れた食器を掃き集めた。
そうしているうちに電気が復旧したので、片づけを諦めてPCを設置しなおし、ニュースと掲示板やTwitterなどで地震や津波の情報を片っ端から拾い集めた。TouTubeの津波映像の中には福島第2原子力発電所から職員が海の様子を撮影したものもあったように思う。

3月の11日ともなると春分も間近で、日はそれなりに長い。
まだ明るさのあるうちに夫が帰還した。外は雪が舞っていた。互いの無事を15秒で確かめると、夫は「寝室の窓が開いてしまっている」「今すぐ水を貯める必要がある」と教えてくれた。夫は浴槽に、私は台所で大きめの鍋に水を確保した。寝室の窓を閉めながら、昼頃の穏やかな日差しを遠く懐かしく思った。
夫の存在にようやく少し自分を取り戻してみると、ふたりともひどい顔をしていた。エネルギーとビタミンが必要だった。文旦とクラッカーをふたりで食べながら、ぽつぽつと、努めて明るい声で話をした。
職場の様子を尋ねると、余震が続く中で夜間に片づけ作業もさせられないので一部の人を除いて今日は自宅待機になったという。大きな怪我をした人はいなかったというのでひとまずは安堵したのだが、職場には海に近い住まいの人もいて、自宅に向かったと聞き言葉を失った。
翌12日は早朝から出勤指示が出ていた。