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「和魂」のこと、「荒魂」のこと

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前回、私の価値観に基づく勝手な祈りについて書かせていただきました。
こちらの背景を知らされないままの読み手にとっては書き手である私に嫌悪感や忌避感を抱く危険性の高い、そんな文章でした。荒ぶる魂のままに綴って、敢えてそのまま載せました。


こちらの背景を説明するという普通の行為が、近年では「自分語り」と呼ばれたりして面倒な時代になったなと思うのですが・・・。
自分について、世間で言う「普通」からは少し振り切れてしまった人だと認識しています。生まれ落ちた場所は「家庭」ではなく、いつ危険な状態に陥るか常に感度高めでいなければならなかったため過緊張で肝心の時には緊張の糸がもう切れていたり。「こんな状況ではマトモな大人になれない」と家からの救出を全霊で願ったけれど叶わず、父と母と第1子の憂さ晴らしや濡れ衣に使われ続けたり。間違ったことを「正しいことや常識」と偽って教え込もうとされるのが本当に嫌だった。親に替わって正しいことや社会のルールを教えてくれる信じていい大人もいなくて、きっとこれは間違っていると私自身の直感が告げていても自分を信じていいのか判断できなくなっていく、その過程をずっと見続けていたことの恐怖は私の持つ語彙では表現できません。
「見続けていた」と他人事のように書いたのは、当時の私がおそらく自分をいくつにも切り離すことで自我を守ろうとした、自我のうちひとつでも逃げ延びさせようとしたから。自分の養育者であるはずの大人や年上のきょうだいについて「親だ家族だ」と慕いたいという当たり前の情を自らに諦めさせることはひと桁の年齢の子どもには難しくて、諦念を抱えたまま生きられるようになるまでの間に、幾人かの自分をおくりました。私の背後には守護となる父祖の霊の替わりに、幼い私が連なっています。
ぼろぼろに疲れて荒ぶる魂を暴走させていた頃には間違ったこともしました。逆に間違ったことをされることもあった。それでも最終的な破滅に至らずに済んできたのは、「なさけ」をかけてくれた人たちが存在したからだと感じています。直接的な救いの手を差し伸べてくれた人たちがいて、本当に数えるほどの体験だったけど私にはとても大きな大切な宝物です。
それだけではなく間接的な救け、前回書いたような「ひとかけらの心」も私はたくさん貰いました。まだ児童や生徒と呼ばれる年代だった私に「あまり係わりたくない」「うちの子とあまり係わってほしくない」と冷たく言い放つ人もいたけれど、同じことを言った直後に横顔で「(それでもどうか道を踏み外さないで・・・)」とひとかけらの思いを残してくれる人もいた。「(ごめんね・・・)」と思ってくれた人もいた。それが聞こえていたから、自分が人間であることを諦めずにいられた。私の知らないところで同じような願いをかけてくれた人たちもおそらくいて、そういった思いにたすけられて今日まで生かされてきたのです。そうでなければ疾うに死んでいました。
ひとつひとつは小さいかもしれない思いのかけら(それでも私には充分にありがたいものでした)。言うなれば「さざれ石」のようなそれらが、親や父祖の替わりに、私が荒ぶる魂を制御できるようになるまでの猶予期間を作り守ってくれたのです。


少し話が飛びますが。
数年前の春の夜、「外からとてつもなく強い感情が流れ込んできた」と感じました。最初は何が起こったのか全くわからず。それでもその切迫感が311の予知夢と同じくらい烈しいものだったことに危機感を覚え、手当たり次第にニュースを調べて数日後、或る事件に辿りつきました。その事件は、誰かの強い感情が流れ込んできたその日その時間に起きていたのです。
それだけで不可思議な体験を肯定するほど蒙昧ではないつもりですが、どうにも気になったのでその事件と裁判の経過をずっと追っていました。犯人は、そこに至るまでとても酷い子ども時代を送り、のちに差し伸べられた救いの手を信じることができなくなる呪いのような体験もしていたことが裁判で明らかにされていきました。初めのうちは事件と同じ時間に自分が体験したことについて「そんなことあるものか」と否定する要素を探すために追いかけていた部分もあったのです。でももう良識を投げ捨てて肯定する。
あの日、事件のあった夜、私は親子ほどに齢の離れたその少年の魂の叫びを聞いたのです。
たくさんの思いのかけらを受け取るのに辛うじて間に合った私。受け取るには信じるには傷が深くなりすぎた少年。そこには意味があると、深く考えずにはいられませんでした。何かできないだろうかと考えたとき、自分の「意外と踏みとどまっている人生」をそれでも上々と肯定してきたことについて少し後悔しました。眼を見て肉声を聞いたら、その少年のための何かを見つけられるのだろうか。
少年はいま、犯した凶行の罪について考え償う機会として懲役刑を受けています。


いつか、誰かに。かけてもらった情を返したい。返す。その思いが、前回綴った祈りの起点にあります。
頑張っている人、頑張れずにいる人。目を曇らせている人、視えているからこそ苦しんでいる人。誰かを心配している人、心配されているほうの人。道を拓く人、付いていく人。前に進む人、今は休むと決めた人。世の中には大勢の人がいて、それぞれが時によっていろいろな状態にあります。望んだ状態に近い人も、そうではない人もいるでしょう。
どんな人にも、背中を預けほっとできる場所や時間は必要です。短い時間かりそめの場所でもいい、ほっとひと息を「毎日」重ねる。それは、たぶん人間性を失わないために必要な積み重ねなのだと思います(不調の時だけでなく好調の時にも必要なことです)。小さくてもやがて積み重なって、過去や現状を分析し先(未来)や周りを考える余裕につながっていく。それができずに苦しんでいる人をたすけたい。かつて私がそうしてもらったように。
今度は私の思いのかけらを「誰かのさざれ石になれ」と送り出す番です。
そうやって魂を少しずつ分けていって、受け取ったり送り出したりを重ねていつか1つの魂として存在するには足りない状態になったとき、死を迎える。それが齢をとって死ぬということだと解釈しています。

無題

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見たり聞いたり考えたりしたことについて、話せる相手があなたにはいますか?

このサイトではアクセス解析を使用していて、見る限り今のところ海外のボットに巡回されているだけのようなのですが、いつか人間が読んでくれることがあった時のために書いておきたいと思わせる事件が起きました。
社会の出来事、特に事件や事故についてはリアルタイムで言及するようなことは基本的には避けたいというのが私の立ち位置です。理由は、自分はそんなに立派な人間じゃないと知っているから。それに「実際のところ」なんて、ニュースを視聴したくらいで外野が理解できるようなものじゃないから。
では何を書こうとしているのか。疑問に思われるでしょう。それは「当たり前」に知られていて、わざわざ言葉にすると「ウザい」だの「キモい」だの言われる類のことです。私は多くの宗教から思想的影響を受けていますが、いずれの宗教にも属していません。信仰に近いものがあるとすれば、地球というか宇宙を保っている自然の法則、これだけは信じているし従うよう心がけています。
そうならないよう気を付けますが、説教めいた言い方になったら私の表現力が至らないためです。苦手そうな話題だと思ったら読まない、あるいは、途中でも読むのをやめることを強くお勧めします。

今日これを読んだら。
誰かと話やチャットやメールをしてください。楽しんだりほっと和んだりできるものならどんな他愛もない話題でもいいのです。そうしたら、その人と話ができていることに感謝してください。その人があなたに時間を費やしてくれていること、その人が存在していること、その時間を過ごす場所やコミュニケーションツールに対して。自分がその人と話せる環境や状態はどのように成立しているか考えてみると、感謝のポイントはたくさん存在していることが見えてきます。考えれば考えるほど多く見つけることができるでしょう。
そして1日を終えて眠りに就くときに、あなたがとても満たされた気持ちでいたなら。そのあたたかな気持ちを、誰かに少しだけ分けてあげてください。今日話した相手でもいい。ほかの人でもいい。あるいは全く知らない人、例えば世界のどこかにいるかもしれない今日ツキのない1日を過ごした人というのも優しい選択だと思います。誰かが今日の自分のようにあたたかな気持ちになれますように、と願いを送りだしてください。ひとひらで充分です。自分の分まで放出してしまったら、『幸福の王子』になってしまいますから。誰かにひとひら、明日の自分にひと片、をセットで癖づけると安全かもしれませんね。
話す相手が忙しくて時間が合わなかったり、そんな相手はいないなーという場合は。ひとりで好きなことをしましょう。人の迷惑にならないことならどんなことでもいいです。相手の都合が悪いときは私も本を読んだり動画を見たり。とはいえ疲れない程度で収めてくださいね。眠りに落ちる前にあなたが満足した状態を維持していることが大事です。そして同じように、あなたに満足をもたらした環境や状態がどのように成立しているかを意識してください。ひとりで過ごした楽しい時間が、実のところどれだけ多くの人によって支えられているか。あなた自身。家族も? あなたの、あるいは家族の勤務先。本を読んだなら作者や出版社や彼らを周りで支えるたくさんの人たちに。給与や報酬などの対価を得ているとはいえ誰かが働いて社会が回っていること。多種多様の技術が開発され改良されて今の社会があること。インフラの整った国に暮らしていること。感謝のポイントは様々です。「アハ体験」というのが話題になった時期がありましたが、「そう言えばこれってあり難いことだった!」と再認識するのはその体験と似ている気がします。
感謝したい相手や感謝できることをたくさん見出して、ありがたい気持ちが自然に湧き出たら。どうか、明日の自分と誰かのために願いをかけてください。

「明日も少しだけいい日だといい。誰かの明日も少しだけいい日だといい」。そんな風にして、「善かれ(よくあれ)」をみんなで毎日少しずつ積み重ねていけたら、世界(地球上の「世界」というよりは哲学的な「世界」)は少し良くなる。
「何をお花畑なことを言っているんだ」と辟易する方もいらっしゃるでしょうが、50年くらい生きて行ったり来たりずっと考え続けてきて結局ここなんだ、と落ち着きました。「ここ」というのは「どれだけ広くかつ繊細に世界を認識し肯定できるか」という立ち位置のことです。「繊細」といっても世界中の人の顔や名前や仕事を覚えるといった細かさではありません。むしろ知らないままに「見知らぬ誰かについて(事情などを)思い遣る」ような、心の働きの繊細さ。そういったスキルが、今、世界に必要だと感じます。
同じような考えに至っている方々もいらっしゃって、もっと分かり易く簡潔に、危機感をやわらかく伝えている場面に出会うことがあります。
この文を読んでくださったあなたは、どんな立ち位置でしょうか。同じようなことをすでに考えていたかたか、長い文を読んでみたけど違うなと感じたか。具体的実効的な方向を好むかたは後者でしょう。それはそれで勿論アリです。
もし、文章は無駄に長いけど共感できるところもあったから「善かれ」をやってみるよ、と思っていただけたらとても嬉しく思います。誰かの心を動かすというのは本当に難しいこと(あり難いこと)ですから。

R.I.P.


先へ向かう前に

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今日はただのボヤキだなあ。時間を無駄にしたくないかたはすぐにブラウザを閉じましょう
でも「誰か」のために掲げておきたいので。ごめんなさい。老婆(予備軍)の繰り言で時間を無駄にしたくないかたは、すぐにブラウザを閉じましょう。大事なことなので2度綴りましたよ。

何か問題を解決しようと欲しているとき、正しい情報が必要な量より多く揃っていれば、答えはおのずと見えてくる。答えが自然に降りてこないときは適切な情報が不足(脱落、数などの不足)しているか、答えを得られる時機が到来していないのだ。

これが人間関係だと情報を意図的に阻害している人(達)がいたり、と思っていたら。
まさかの統計不正のニュース、国民の生活の基本的な指針にかかわる仕事でそんなことになっていてとても悲しいです。虐待もブラック労働も、貧困も。日本全体が予備貧困状態になっているのも。政権や省庁が教養ある大人の振舞いを捨てたせいだと、思わせないでほしい。審判はしたくない。タタリ神になるのもごめんです。
怒っている声はとても多いのに、ひとりひとり事情に沿う形で国や社会の存続を願って自重している。民は分別を示している。

現在だけを見て、バレなければ何をしてもいい、責任の末端で済むなら何してもいいみたいなことしてる人たち、もうやめよう。あなたの行いをあなたの中のミトコンドリアとか腸内細菌とか、人間とは違う時間軸で生きている存在が見て伝えている(かもしれない)、という研究があるらしい。子どもや孫、後世の人たちに慕われる人でいてください、お願いします。あなたたちの周りのさらにその周り、そこにいる人たちも同じ人間です。

あなたたちの精神に毒を注いでいい加減な仕事をするよう仕向けた人達が何者なのか、もう一度考えてみませんか。日本の歴史、世界の歴史を紐解いてみてください。あなたたちが状況の支配者だと誤認させられてはいませんか。汚れ仕事に利用されているだけではありませんか。もう数段奥の事情まで、よく見きわめてください。官僚になれた能力があるのだからできます。政治家さんも読みができる人たちなのだからできます。無理と思ったら人間力でカバーです。
餌につられる獣とは違うってところを、見せてください。
本来の自分はどんな人間でしたか?