今夜の風は少し強くて、あの日を思い出す。
今日は311と絡めて「政治の難しさ」について少し思うところがあったので、頑張ってまとめてみようと思います。予告、今日の文章はとても四角いです。面白味の全くない内容になるので、疲れている人は今日の投稿は読まないでね。かなり遠回りして着地します。
最近このサイトを発見した方に向けて説明させていただくと、私は9年前も今日も変わらずに福島Fukushima県に住んでいます。今年は政府主催の慰霊式典は中止になりました。福島の名を冠した原子力発電所は首都圏および関東の電気を作っていたのですけどね…。9年前「今を生き延びなければ」と必死になったことを思えば、コロナの災禍の只中にある現状において、式典を行わないのも適切な判断のひとつ、と言えるでしょう。
自治体などではそれぞれに国よりは小規模な慰霊式が執り行われました。こちらもまた適切な判断のひとつです。矛盾しているようですが、国と、より近いコミュニティとで表面上、判断を異にするというのはよくあることです。
最近だと休校措置について、国と自治体とで意見に食い違いが見られたりというものですね。
暴論になるけど言ってしまうと、食い違っていいのです。国と自治体は別のもの、背負っている物が違うのですから(重なる部分もあります)。自治体は国より現場に近い存在として、休校措置により「安心だ」「困る」という声を拾い上げることができる立場なのですから。実際に休校措置を要請通り開始した自治体、遅らせて開始した自治体、実施しない自治体と、その選択は分かれました。今回の休校要請は法的な拘束力は無いものとして示されたので、自治体が実情に合わせて判断したということです。
「判断が自治体と言うなら、国の要請は必要だった?」と疑問に思われるでしょう。これはもう少し未来にならないと答えを見出せないと思います。あるいは未来にも確定的な答えは見いだせないかもしれません。私見を申し上げるなら、とても良い判断だったと思っています。政府の指針として休校要請が示されることがなかったら、公立で「未然に防げるタイミングでの休校措置」に踏み切れる学校はまず無かっただろうから。私立学校では、政府に先立って休校措置を採ったところもあったのですよ。
政府が休校要請に踏み切ったのは、マスクが品切れになったせいではないかと拙い推測をしています。要請の少し前、日本で起きていたこと。武漢から邦人を帰国させるチャーター便にマスクや防護服などを積み込んで援助物資として贈ったこと。そうしたら追随する動きが各所で起きてしまったこと。結果として日本の店からマスクが消えた…。保管期限が長いマスクとはいえ、個人がどんなに買い貯めようとしたとしても店から消えてしまうなんて、ね。
援助物資としてチャーター便でマスクなどを運び贈ったことは、美談ではなく、国と国との関係として必要な配慮でした。これは妥当です。ただ、追随する動きのほうは本当に必要なことだったでしょうか。オスカー・ワイルドの小説「幸福な王子」は、私の読み方だと、遠くばかりを見て足元を大切にせず自分たちの町を荒廃させてしまった悲しいお話です。「疫病」に際しては非情に思えても「対岸の火事では済まないもの。地震や水害とは異なる対処をすべきもの」という点を、要職に就く方々には含んでおいてほしいと願わずにはいられません。
もちろん、マスクが届いた先で「助かった!」と感謝を述べてくださる方々がいて、彼らにマスクが必要だったことについては私も否定しないし良かったと思います。そのうえで、考えてほしいと思うのです。国の責任においては国民の生活を守ることも他国との外交を円満に維持することも同じように大切です。企業などで中国に支社や工場を置く場合は国に準ずるだけの事情を有すると考えられます。それ以外の立場では、行動する前に少し立ち止まって妥当かどうか考えてみてほしいとお願いしたいです。
ひどいことを言うようだけど、人間は時に自分の中の善なる心とも闘わなければいけない時があるのです。誰かの苦しみを知ってしまって、何かしてあげられることは無いかと思い遣る。あたりまえで美しい人間的な心の動き、それさえも控え目に冷徹に対処しなければいけないこともあるのが「疫病」であり「指導的立場にある者の責任」なのです。・・・
と言われても。
出来ませんよね!思いやりを封じるなんて、無理ですよ。
だから日本政府は「休校要請」という形で国民を守ろうという姿勢を示したのだと思います。「マスクを贈るな」とは言えませんよ、人間的にも外交的にも。要請に対する反発だって予想しただろうし、経済面で多少の綱渡りになることも想定したと思います。言葉の通り、本当にギリギリの判断だったのでしょう。
311とそれに至る事情によって、私は現在の与党と首相にあまり期待や良い感情を持つことができません(何故だろうとどうしても気になる場合は8年前のタグを付けた投稿をお読みください。ただし読みにくくて長いこと、主観的に書いたものなので偏っていることからあまりお勧めはしません)。それでも、今回の新型コロナウィルスに関する政府の対応は、きっとそんなに間違っていないと考えています。政局というのはきっと将棋やチェスの多面指しみたいなところがあって。だから見ている私たち国民もいろいろな面に同時に目を向けないと、国が目指す本当のところというのを推し量るのは難しそうな気がします。
そんな余裕を持てないという人が多いのが今の日本。どう変わっていったらいいと、あなたは思いますか?「収拾がつかなくなるから地獄だよ」と否定する人もいるけれど、こういったことを政治を志す人だけでなく皆で、臆せずに自分の言葉で話し合える。そんな世の中を見てみたいと私は思うのです。
「COVID-19」タグアーカイブ
春待つ日々の思いわずらい
前回の投稿のタイトルに波紋という言葉を採用したことを少し後悔しています。その次の日あたりからニュースなどで「波紋」の文字をやたらと目にしてしまったので。絶対気のせいだけど、バタフライエフェクトの羽ばたきの1回を知らぬ間に自分も担ってしまったような、少し苦い気分です。気を付けなければいけませんね。
波紋という言葉はニュースで見かけるときは概ね不穏な空気感を醸すもの。でも元の意味の水の動きの波紋、私は好きです。ひとつきりの動き、複数が相互に作用した時の動き。空気の流れを可視化するのはいろいろ仕掛けが必要ですが水の動きは目で捉えられるので、子どものころは単純に興味を惹かれて水紋をよく観察していました。今思うと、物事を考える下地を養うのに役立ったのかもしれません。
3月の第1週の日本は混乱が大きくて、休校の影響や更にその影響などで社会の空気が張り詰めてしまっていてとても心配しました。解決したわけではなく現在進行中で大変な思いをしている人が大勢いて。私に言えるのは、それらは社会のひずみで、新型コロナウィルスによって「発生」した問題ではなく元々そこに在った問題が「顕在化」したのだということくらいです。平常時に少しずつ皆で考えて実現可能性を探り、社会を少しずつメンテナンスしていく。それが近年の災害続きの日本では皆少し疲れてしまっていて、うまく回らなかったかなという気がします。
この新型コロナの災禍を乗り越えたら、現場に余白のある社会を作れるといい。そうでない社会は非常時に身動きが取れないのだと、またしても痛感しました。
皆で考えよう。考えることを、政治家や官僚だけに任せているやり方では限界なのだと思います。彼らは彼らなりに余白を設けようとしてきた部分もあるように思うのですが、人間は万能ではありませんよね。想定だけですべての人すべての状況にピタリとフィットする政策を出せるなら、世界から苦しみはとうに消え去っているはずで。だから、現場に余白のある社会を欲するときは、誰よりもまず現場の人間が考えてみなくては。何故なら、当事者の声が不足したままでは「かりそめの現状把握」を反映した計画しか立てようがないからです。それでは痒いところに手は届かない、問題は解決しないのです。
それから今もって得体の知れないモノ扱いの新型コロナウィルスだけど、闇雲に怖がるのはもうやめにしましょう。感情はいったん脇へ置いておいて、情報は事実だけ拾う。確定的な情報、不確実だけど注目しておきたい情報など、整理する。正しい情報をしっかり整理すると自然と見えてきます、今の自分に出来ること、今は出来ないこと、どうしようもないこと。この整理がつけば、少なくとも怖さや焦燥感は少しは遠のくと思いますよ。替わりに、諦めから無気力に陥らないよう自分との闘いをする羽目に陥るけれど、大人なら自分の御し方の3つや4つ備えているでしょ? ならば、ウィルスよりは自分のほうがまだ相手にしやすい、というものです。
今日は言葉が硬めで、読んでくださるかたに響きにくい文章になっている気がします。新型コロナウィルスを心配するあまり「コロナ鬱」を発症する人が増えている、という記事を見かけました。私もそれか!
コロナ禍は世界中で猛威を振るっていて社会も経済も混乱してヒステリックだし、身近なところではマスク転売屋(憶測)に絡まれたり、紙製品が消えたままのお店の棚を見てはこの地に住む人々が震災と水害によってどれほど深く傷ついているかを思って心が軋んだりと、それなりに多難な日々ではありました。
心が温かく幸せになることもちゃんとありましたよ。陽ざしがあたたかく明るくなってきたこと、例年より早く木蘭が咲きそうで蕾から柔らかな色味の白を覗かせていること。そういえばWHOから「新型コロナが夏になれば収束するというのは過剰な期待」というコメントが発表されていましたが。それでも春と秋は夏と冬に比べて体への負担が小さいわけで、気候がよい分だけ感染のペースや重症化が抑制されたらいいなという期待も捨てていません(そうならなくても失望に囚われない覚悟とともに)。
そんなわけで、何も変わらないかもしれなくても。北半球の温帯に住む身としては、今はやっぱり春を待つ。せめてひと時の安らぎが多くの人にもたらされますように。
波紋 一斉休校要請のもたらすもの
一斉休校要請から2日後の29日、首相の会見があったわけですが。2日分、仕事が進んでより具体的な施策の発表が・・・あったりはしませんでした。あれれ?とは思ったけど、そこに囚われて足を止めるのは無意味なこと。魂のエネルギーは、自分を含め皆を守るため、先へ進むために使いましょう。
混乱、やはり大きいようですね。身近に学齢期の子どもがいないので「ようですね」と曖昧かつ他人事のような書き方で申し訳ない。
ニュースからいくつか気になったことや考えてみたこと、置いておきますね。ただの無茶振り、井戸端のたわ言ですが、読んだどなたかが「自分ならこうする!」と新たに何かを思いついてくれたらいいなと思います。
・「青春を奪われた」
ニュースの見出しになっていましたが、子役として活躍し現在中学生でしたか?の俳優さんの発言です。
とても素直な感情の発露で、見出しだけで心が痛くなります。大人たちは子どもたちのこういった当たり前の気持ちをまずしっかりと受け止めてあげなくてはと思います。大人だっていろいろあるのにともやもやするかもしれないけれど、「こんな時なのだから我慢しなさい!」とは言わないであげてくださいね。
学校という場所は1年をかけて来たるべき3月の学年末に向けて進軍しているような性質を帯びているのでね。ゴールが取り上げられてしまったら、混乱も悲しみも憤りもあるのは当然です。いま私たち(日本で暮らす老若男女)がいるのは、子どもたちに与える影響を考慮にいれてもウィルスから皆を守りかつ社会を守るために通常営業から特別営業に切り替えるという、そういう地点かと思います。大人の考えについて強制しない形で理解してもらえるよう、対話をしてあげてください。子どもは大人が思うより聡いものです。言葉だけでわからないことも、態度や行動から総合的に理解して思いをくみ取るといったことが、ちゃんと出来ていたりしますから。案外これを機に、これまで幼子だった子どもさんが一段階成長して「大人になるために子ども時代を大切に生きる」という目的意識を獲得するかもしれませんよ。
災い転じて福と為すという言葉もあります。今できることをいくつも考えだしてみて、その中から選べることをひとつひとつやってみましょう。
「奪われた青春」について。厳しいことを言うと、それが悲しみや憤りで終わるのは自分で自分をその視点に縛り付けてしまったときです。「悲しみや憤りで終わらせないために」何ができるか。例えば、「2020年の3月という時間を心のタイムカプセルにしまって新型コロナの収束後に集まる約束をする」というのはどうですか?「今だから意味があるって、わからない?」と返されるかもしれませんが。現状を受け入れつつ自分たちを悲しくしない方法。年寄りの発想だと、この3月にみんなでやるはずだったあれやこれやを未来のいつかにとっておいたらいいのでは、と思いますよ。若さの一面として刹那的という性質があることは理解できるので、「今の私たちじゃなくなってしまう」とか「来られない人が出てくる」とかいろいろ複雑なのでしょうけど。当たり前に得られるはずだった青春を奪われたと思うなら、それに替わる特別な青春を掴み取ったらいい。お仕着せではなく、自分たちがこうしたいという青春を。好き勝手にしていいということではありませんよ。自由には責任が伴います。
というようなことをですね(もちろん別のご自身の考えや思いもアリです)、身近に子どもさんがいらっしゃる大人の皆さまはもっと柔らかい言葉で伝えて、それとなく導いてあげてくださいね。
・・・打ち込んでいてふと思ったのだけど、このままなし崩し的に夏まで休校を長引かせて進級を餌に動員、なんて調子いいことを考えていないでしょうね?そんな本末転倒で無茶苦茶なことはしないだろうと思うけど。それをやってしまったらさすがに滅ぶわー。くぎを刺しておきます、駄目ですよ。
・「給食業者に悲鳴」
社会が止まってしまうような大流行を予防するための休校策によって逆に止められてしまう、という一例です。これは放っておけないですよね。
大規模給食センターに切り替えて「節約」してきたことが裏目となってしまう形に、と嘆息しても仕方ない。契約していた食材は予定通り買い上げたらいいのではないでしょうか。そして、共働きやシングルペアレント他、昼食の心配があるご家庭に配食できる方法を手配する。簡単に言ってしまったけど準備大変ですよね、ごめんなさい。希望の取りまとめはすみません学校に、配食用メニューの作成は給食センター(契約栄養士?)に、容器の手配も新たに必要かもしれないし、子どもだけで留守番しているご家庭も多いだろうから各戸に届けるのはどうなのかという点もあるし、と考えていくとやはり難しいのかな。昼食の心配がある子どもさんに教室利用を認めて自習とし弁当対応する方針を検討している自治体もあるとニュースで見かけましたが。大変なことではあるけれど、夏休みなど長期休暇のおりにも利用できる新しい配食サービス事業を立ち上げると考えればこれも災い転じて…だと思います。しかも既存の給食センターを使うなら設備投資は少額です。
あるいは、短時間とはいえ結局学校に足を運ぶことを是とするならば、給食室(または家庭科調理室)を臨時に限定的な「営業」に開放するのはいかがですか?給食センター規模ではなくもっと少ない人数に対しての調理を、期間限定で請け負ってもらう方向。「学校という聖域が」と言われる予感がしますが、安全を考えるお立場を察するとその言葉も尊重すべきですから、人選はとても難しくなると思います。三重県でしたよね「高校生食堂」、あの在り方を参考にすると教育的意義も満たせて一挙両得、、とはいかないかなあ。
日本は何故か変化を嫌う人が多いけど、時には変わることや区切りをつけることもまた、変わらずにいることと同じくらい大切です。この3月に実現してもしなくても、「こうしたら世の中うまく回るのではないだろうか」と知恵を出し合って、いっぱい話し合ってほしいです。今回間に合わなくても良い案があったら少しずつ実現して、時間をかけて社会の仕組みを時代の必要に合ったものに取り替えていけばいい。そんな思いから今日も愚考を重ねてしまいました。
日本も世界も、これからどうなっていくのでしょうね。少し先の未来に明るい光を感じるのは、単純に今、春めいてきた陽ざしを浴びてPCに向かっているせいだろう。今はただ、新型コロナウィルスによる悲しみや苦しみがこれ以上拡がらないことを願うばかりです。