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「  令 和  」 追記

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先の記事で曖昧な表現などもありましたので追加を。

>「万葉集」の梅の花を詠んだ歌を集めたくだりから、と聞きました。
くだり、などと曖昧な表現をしてしまいましたが「序文」ですね。「この後に掲載する梅の花を詠んだ歌三十二首はこういう状況で詠まれたものですよ」という説明文です。
こういう状況というのは。(『 』内は万葉集からの引用です。)

『天平二年正月十三日(略)』西暦730年の正月13日、大宰府の長官の邸宅にて宴会が催されました。
『時に初春の令月にして』時は初春の好(よ)き月、
『気淑(きよ)く風和(なごやか)に』空気は澄んで風もやわらかく、

「令和」はこの部分からの採用とのことでした。
ちなみに正月とあるのは旧暦のため、現在の暦の感覚だと大雑把に言うと1ヶ月ほど後の2月にあたります。大宰府(福岡県)の2月中旬、きっと梅を愉しむには持ってこいの時節だったでしょうね。梅の種類は何だったのか、とても気になります。

『和に』以下には、自然を言祝(ことほ)ぐ言葉が続きます。
天地(あめつち)に感謝し、その許(もと)で師や友人と親しく酒を酌(く)み交わすことを喜びます。漢詩にも梅を詠んだものがあることに言及し、「昔も今も(自然に親しみ人に親しむという人の営みは)変わらないものだなあ」と言っています。
漢詩をなぞった宴というのは当時の知識階級の人達にとって雅(みやび)な遊びだったとか。贅をつくすわけではなく、素朴に自然に寄り添う楽しみ方だったようです。このことは「万葉集」の他の歌などから想像することができます。漢詩が詠まれた遠い時代の中国、時空を超えた見知らぬ場所と人に思いを重ね合わせ、自然に続き人間をも礼賛しているのです。和(わ)の対外姿勢は、このころ既に醸成されていることが窺われます。
また世界中の文化に見られることですが、文字の向こうの世界を再現してみるという行為がこのころの日本でも確立していて、それらが現代の多くの文化に繋がっている辺りもとても興味深いです。


さて。頭の良い人は万人に伝わる言葉で表現できると言うのに、小難しい言い回しになってしまいましたね・・・。
せっかくなので序文全部、平たい解説にチャレンジしてみます!こういう時のための年寄りですから。

序文の構成は、

  1. 時と場の明示
    「私達は何故ここに集ったか」
  2. 自然を賛美し、場を共にしている参加者への親しみを表す
    「(自然を美しいと思う人間の根源的な性質・共通点を話題にして心をほぐす)」
  3. 漢詩に言及しちょっと教養を披露する
    「(ほぐしておいたみんなの心を、変化球で鷲掴み!まとめにかかる予告)」
  4. いざ!庭の梅を愛でて短歌に詠みましょうぞ!
    「楽しむぞー!」

このようになっております。古典に興味のない人にも興味を持ってもらえたらと思ったのですが、平たくしすぎましたかね。
「起承転結」構造と言ってもいい、なかなか明快な作りです。

この構造、どこかで覚えがあったりしませんか?成人の方、特に。
これ、典型的なスピーチのとても良い手本、テンプレートになっているんですよ。なので結婚式や宴会などで、乾杯の音頭を取るのが抜群に上手な人がこの手法で会場をひとつにしていたなという体験のある方、ご自身が活用されている方、結構いらっしゃるのではないでしょうか。
古典の中に現代に通じるものを見つけられることもある(温故知新ですね)。そこに気づくと古典が、より身近に感じられるかもしれません。

新しい元号、令和が多くの方々に親しまれますように。


「  令 和  」

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2019年5月1日からの日本の新元号が「令和(れいわ)」に決定されました。
おめでとうございます!
とてもよいものに決まったと思います。正確な詳細は各自ニュース等でご確認いただきたいのですが、初めて国書「万葉集」から採用されたそうです。最初に文字だけ見た瞬間に「令のもとに和する」と降りてきて、何か祓われたようなとても清浄な感じを覚えました。もしかしたら選定に当たられた方達が新元号に込めたお気持ちかもしれませんね。

元号に関する有識者懇談会の皆様とお名前は出さない方々、本当に素晴らしい仕事を成されました。
文字のたたずまいも、
音の響きも、
出典も、
採用の根拠とそこに込められた思いも。
パーフェクト!
もうひとつ、文字の親しみやすさ(書き易さ、覚え易さ)も。

「万葉集」の梅の花を詠んだ歌を集めたくだりから、と聞きました。
梅もまた日本人にはなじみの深い花ですから、それぞれに思い出される梅の木があることと思います。日本の梅の名所、となるとやはりその規模から熱海梅園を思い浮かべる方が多いのでしょうか。今回の選定の理由から考えると茨城県の県都、水戸市にある偕楽園が個人的にはよりfitする感じです。幕末の事情から皇室と縁の深い水戸藩です。
脱線して少しだけ。偕楽園は「民と偕(とも)に楽しむ」場として幕末近くの時の藩主、
徳川斉昭公によって造園されたものです。兼六園、後楽園と並んで日本三名園で、とても素敵なところです。是非お運びくださいと申し上げたいところではありますがせめて写真だけでも、いややはり設計理念なども知ってほしい、お時間等に余裕のある方はどうぞご覧になってくださいませ。徳川斉昭公も水戸の黄門様、光圀公と並んで神として奉られ(神社の祭神様なのです。日本文化。)親しまれている方で、破格の器を窺わせる多くの逸話が遺されておりますので、興味を持たれた方は是非インターネットであるいは図書でそのエピソードに触れてみてくださいませ。

少しだけ、の脱線が長くなりました。
懐かしい本を引っ張り出して「万葉集」に戻りますと、この出典となった「巻第五」は家族を慈しむ心を詠んで始まります。巻頭の歌ではないのですが、次の歌。

『 銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも (万葉集巻第五・八〇三)』

中学・高校時代に聞いた覚えがありませんか?それから貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)、遠い記憶が呼び起こされますが、こちらも同じく巻第五に収められているのです。
安倍首相が会見で話されていた「様々な立場」、梅の会だけでなく「巻全体に及ぶ」というのはこの辺りの説明というわけですね。
現在の日本の社会に向けられた、新元号を提案された方の眼差しに心を打たれます。

平成の残りひと月が平和でありますように。
令和の名のもと新しい時代が、成熟した秩序によって保たれる理性的な幸福を成し得ますように。
祈りを込めて。


「神様なんていない」見捨てられた気分のあなたへ

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このサイトで文章を読んでくださっているかたには、誰に向けて書いているのか混乱するような場面があるかもしれない。究極的にはOnePersonに向けて書いているのだが、インターネットという公共の場を閉鎖せずに利用しているので、多くの人が目にする可能性があることを自分に言い聞かせている。それでもテーマによっては狭い範囲の方たちへのメッセージのようになってしまうこともあるだろう。
今日は「神様なんていないし、もう自分なんてどうでもいい」と投げやりな気分の方がたに向けて、SF(すこし不思議)な話をしようと思う。
だいぶ偏った私の世界観が出てくるので、他人の考え方に興味がないかたは読まないほうがいいですよ、と注意喚起しておきます。

半世紀くらい生きているとオカルトとしか言えない体験の1つや2つはある、という人も多いだろう。私もそういうひとりだ。オカルト的な括りの中で、「本当にどうすることもできなかったのか」と悔いていることが2つ、「何かできることがあるのではないか」と現在進行形で気にかかっているのに先送りしていることが1つある。

先の2つの後悔のうち1つ。若いころ、一生の友人関係が築けたらいいと思う人たちがいた。サークルの同級生だったがみんな異性だったので、どう切り出したらいいのか迷っているうちに卒業を迎えてしまった。卒業前後に集まる機会があって、「ずっと友人でいてほしい」と伝えるなら今日だという日にそれは起こった。解散間際、超大手企業に就職した1人が名刺を手渡してくれて、「いいところに就職したね、おめでとう」と言おうと口を開いた瞬間に横殴りにされたような衝撃があった。そして私の口は切れ切れながら勝手に言葉を紡いだのだ。「その会社は、すごくだめな会社だよ、よくない」と。
上記を読んだ多くのかたが「それは、素晴らしい就職を果たした友人に嫉妬しただけでは?」と感じるだろう。私自身、最初は自分を疑ったのだ。なんと心が狭く醜い行いをしてしまったのかと。だが、自分の中をどれだけ探しても、私の中にその人への負の感情は無かった。
パニックを起こしかけていたが、相手の気持ちを思うとこんなひどい言葉をかけた私が自我を喪失するのは卑怯だと必死に自分を保って「ごめん」と言葉を絞り出した。それでも結局私は大切に思っていた人たちを失った。
あのとき。負の感情は無かったというなら何はあったのか、何故あのような酷い言葉がでてきたのか。あの後すぐに、思考を放棄したくなっていた自分を叱咤して、可能な限り分析した。言葉が紡がれた瞬間に私の中に存在したのは「とにかくこれだけはつたえなければ」というとても強い思いだった。焦燥感もあった。ただ理由がまったく分からなかった。
後年、その会社はとても大きな事故を起こした。

今なら、少し解る。あのときの私はたぶんイタコのような状態だった。「とにかくこれだけはつたえなければ」というとても強い思いがありながらその理由に全く思い当たらなかったのは、それが私の思いではなかったからだ。今の時代なら「ハッキングされた」と表現したほうが、読んでくださっている方には伝わりやすいだろうか。
その同級生に属する存在が、彼の将来に待ち受ける危機的状況を知って彼を守りたいと強く願った。どうやっても伝えられず困っているところへ、乗っ取りやすそうな人間(私)が現れたので言葉を使って伝えようとした。こういう状況だったのではないかと考えている。

「同級生に属する存在」とはミトコンドリアとか腸内細菌の類だった、というのが私としては最も腑に落ちる説だ。昨年、「ミトコンドリアや腸内細菌のなかに、時間とのかかわり方が人間とは違うタイプが存在しているかもしれない」という仮説を読んだから(いつもなら予算獲得のためのトンデモ記事かなと流すのだが「ふと気になった」のだ)。昔から言われる「ムシの知らせ」とか「第6感」は彼らの生存戦略ではないか、というものだ。普段は漠然とした「感覚」でしか伝えられない、人間と言語を共有してはいない者。
そういう者が本当に存在していたら、宿主つまりは運命共同体である人間を守ろうとするのではないだろうか。

だから、今とてもつらい状況にあって投げやりな気持ちになりそうな方がたへ。今日この文章を読んでいるのは、あなたの運命共同体(ミトコンドリアや腸内細菌)が導いたからかもしれない。「共に在る。見守っている」とあなたに伝えたくて。
「ムシが知らせるとかキモい」と思わないであげてくださいね。宗教で語られる神様とは趣はだいぶ異なるが、「内なるカミ」という立派なカミ様です。よい関係が築けますように。