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食べ物が教えてくれること

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この季節、日の出前の薄明るい時間に目を覚ますと春の訪れを文字通り指折り数えた日々を思い出します。もう10年以上前のこと。衰弱して眠る体力が足りなくて、まとまった睡眠が2時間、90分、80分、70分と日に日に減っていき、20分まで短くなってしまったことがありました。生命力が消えていくような痛みと向き合っていて、浅く短い眠りに落ちては目を覚ますことを繰り返すか、眠れないまま新聞配達のバイクの音を聞き薄明るくなってきたころに疲れ果てて少しだけ眠る。そんな時期があったのです。

そういうわけで、冬も半ばを過ぎたあたりから私は少し神経質になります。1年のうちで生物が最も弱る季節、太陽の守護が最も薄い季節。同じ食材を同じ量食べていても、ほかの季節と比べて力(ちから)が出ない感じがします。人間の体力が低下しやすいのと同じで、食材となる生物もちょっと栄養が低下しているのです。みんな同じ、自分たちが越冬することに生命力を使っていますからね。
さて食材の持つ冬を生き延びる力を分けてもらっていても、季節の終わりが近づくころにはややギリギリな感じになってきます。マラソンで喩えるとゴールの競技場が見える直前が一番きつい感じと似ているでしょうか。そこで冬の終盤対策として、食材を買う時、暖かい地域でとれたできるだけ新鮮なものを必ず1品は選ぶことにしています。夏にはこの逆で涼しい地域で採れたものをひとつ、日差しをいっぱいに浴びた他の食材に混ぜています。何故かと問われたら、、少し答えに窮するかな。そのほうがなんとなくバランスがいい気がしてそうしているだけなので。菜の花やスナップえんどう、2月は短いので頑張って早めの苺を選ぶことも。質より量で、輸入物の果物にすることもあります。輸入してくるので国産よりわずかに鮮度は落ちるものの、がっつり量を摂れるのは利点です。食品の輸入に関する技術は私が生きてきた間だけでもずい分と開発が進みました。ありがたいことです。ビタミン大事。バナナとか、他にはそろそろ北半球のオレンジもおいしい季節。
家族と自分の体の声を聴いて必要なものが判る、そうなれば何よりです。

後はたんぱく質をしっかり摂る。1年の間に大けがや大病を患った家族がいたら、その冬は特にこの点に気を付けてあげてください。筋肉だけでなく内臓も骨も脳も、たんぱく質いっぱい使います。骨と言ったらカルシウムですがあれは外殻として目立っているだけで、内側の骨髄液はカルシウムだけではないのです。ケイ素やコラーゲンやいろいろな大事なものが詰まっています。
すべての血球の素
となる造血幹細胞も脊髄の骨髄液に存在します。
興味を持ったら骨髄液のこと調べてみてくださいね。とても大切で有用なことが学べると思います。

知識は護り、知恵は導き。自分の中に自分用にカスタマイズした本を作っていきましょう。
季節的(冬の日照時間的)な鬱対策で照明明るめの台所からお送りしました。

思いを伝える、思いを汲みとる

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サイトへの投稿がようやく10件を超えようというところで、ふと気になった。
読んでくださる方たちに伝えたい内容を、私の文でちゃんと表現できているだろうか。

こんなことが気になったのは、例えば虐待の疑いのある子どもに本当の気持ちを話してほしいと願うとき、どんな言葉を選び、どんな声色、声の高さで、どんな表情、姿勢、眼差しで接したら心を開いてくれるだろうと考えてみたからだ。対面しているのであれば、全身全霊を以て「安心して」と伝えることも、反対に自分をできるだけ無に近づけて相手の言葉を待つことも(理論上は)可能だ。だが文章だけでそれができるだろうか。
同じ文章でも話し方ひとつで意味が真逆になることもある。話すスキルが封じられているなら、誤解を生まないよう慎重に文章を綴ること。そう思い定めたもののこれが難しくて。普段からぶれない思考を習慣づけようとする一方で、遊び(余白)の無い人間に他者の思いがわかるだろうか他者を受容できるだろうかと疑問に思ったり。つまりは、とても人間らしく揺らいでいる。

揺らぎなどと言うと個人的な内面の吐露に聞こえるが、これは普遍的なことでもあるのだ。揺らぎつつバランスをとること、それは生命の営みそのものだから。
日々、試行錯誤してみたり葛藤してみたり休憩してみたり、その中でバランスをとる方法は人それぞれ。多くの方法に触れて、備えてほしいと願う。
転んでもまた歩きだせるように。

成人とは自分を治めている人のこと

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前回は偏った話し方をしてしまった。もう少しかみ砕いた、思いやりある言葉を選べなかったかと反省している。ニュースを俯瞰していて、ヘイトや揚げ足取り、分断策が増えていると感じていたのでちょっと焦っていた。りっぱな老婆を目指しているのになんとも情けないことです。

うまく伝えられるといいのだけど。私は昔、小学校前くらいの頃、「自分で決める」ことが恐ろしくてたまらなかった。正しい行いや考え方を私に沁みこませようと身近に付き添ってくれる大人がいなかったから、怖ろしい嗤い方をする人たちに「バカだバカだ」と繰り返されていたから、「子どもでバカの私が何か決めるなんてあってはいけない」と心底おそれ戒めていた。選択を迫る人が現れたら憤りを覚えてしまうくらいに。
程無く、自分で決めさせてもらえないほうがもっと恐ろしいと気づいたが、気づくまでの「選択からの逃避期間」は悪い意味で楽だった。何もわからず恐がっているだけの自分を肯定できるのだから。それは本来幼い子どもにだけ赦されている「無知」という状態だ。その先に多くのことを知る将来が控えているから、恐がるだけの状態を赦されるのだ。大人が悪いことのために道具として便利に使っていいものではない。
前回は「それを忘れてしまったの?」と問いかけたかったのだ。忘れることだってある、思い出してみる?とそっと背を押したかった。そっとではなくバシーンと力強く押してしまった気がするので、ごめんなさい。

言われたことを鵜呑みにしないで、自分の目や耳などで感じて、自分の頭で考えて判断する。道具として使っていいのは「自分の思考力」のほう。自分に対して政治を行い、社会のためや善行のために長所短所をうまく使う。それが身につくことを成人すると言う。
20歳18歳というのは法的な分類に過ぎない。もっと年若くても、自分を律して行動を決めるしっかりした人はたくさんいる。増えてきた、とも感じている。頼もしく素晴らしいことだ。

このような変化を見ていると、中高生の頃に読んだインド系の哲学を思い出す。ヴィシュヌ(維持)の時が終わり、シヴァ(再生のための破壊)、そしてブラフマー(創造)へと移行しているのだと。激動の時代には、それを乗り越える器を持つ若い人たちが増える。それが天の采配、自然の摂理というものだ、と書かれていた。自分の死後よりも先の未来、そこに希望があることを願ってそんなことを思い出している。
哲学(宗教)は、子どもの頃に泣いて欲しても得られなかった当たり前で尊いもの、ためになる知恵を授けてくれた(哲学の前は物語だった)。西洋に始まり日本、中国、インド、古の時代と読み進んだが、全てに助けられた。だからこそ読書の果てに、目の前に存在している人との対話を大切に思えるところに辿り着けた。
いつか本の話もしたいと思う。

読みやすい文章をなかなか綴れないけど、気が向いたらどうぞ読みに来てください。