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言の葉の力

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 台風19号で大きな被害のあった私の住む街も、おかげ様で少しずつ落ち着きを取り戻しつつあります。復旧に尽力してくださっている皆様に心から感謝を申し上げます。

 人間は逞しいですね。こんな時だから敢えてこう言っておこう。人間はたくましい。
 私の住んでいる街は8年前に東日本大震災と原子力発電所事故に遭いました。地震や津波などで、多くの人が家族や家や故郷の風景や大切なものをいっぺんに失くして。現実は待ってくれないから、どうにかこうにか頑張ってきたところでまた今回の水害です。
 それでも、台風前も台風後でさえも肌で感じるのは、悲しみや疲労だけではなく「負けていられない」という静かな熱。

 「前を向いていなきゃ仕様がないものね」。
 そこに込められているのは諦めではなく静かな受容と未来への確かな意志。そんな誰かの思いを乗せた魂のかけらが、人から人へ渡っていくうちに少しずつ数を増やしているのかもしれません。だからこの街は大丈夫。この県も大丈夫。短期間に水害が続いた千葉県も19号で被災した各地も、近年災害の増えている観のある日本もついでみたいで済まないけど世界も、大丈夫。

 ゆっくりと。
 少しずつ。
 今は前を向けない人達も待ちながら。
 みんなで、未来に行くのです。

 今を生きる皆様と未来に生きる皆様へ、今回の生で魂の旅を終える古びた魂の私から言祝ぎを贈ります。

 あら、なんか重たくなってしまいました。軽やかな感じで投稿を締めましょうか。
 生物としての人間を信じます。愛してるぜ人類!!


今日のニュースに

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 生の感情を吐き出すことと、私がアドレスに掲げている naked-spirit むきだしの魂の意味するところは違う。だけど今日は虐待の裁判のニュースが辛すぎて、…ごめんなさい少しだけ吐き出します。

 どうか、簡単に手にできる満足感の中毒にならないでください。答えや満足感やそういったものを、簡単に手に入るものと定義しないでください。でっかくぶち上げた目標の、達成に至るまでの努力や工夫のひとつひとつ。そういうものにだって、充足感は得られるじゃないですか。
 安易に手に入る多幸感なんて安易に枯れてしまうものです。それもあっという間に。「すぐに無くなってしまった、でもすぐに手に入ったじゃない?」この思考パターンに支配された未来がどうなるか、想像できるでしょう?人間は、毎日とても満足な状態でいなければ不幸などということはありません(いつも幸せそうに見える人がいたとして、それは傍からはそう見えるというだけ、そう見える人の事情ではなくそう見ている人の目がそう見せているだけです。いつも幸せに見える人が本当にそうなら、その人は幸せの捉え方が上手なのでしょう)。
 それでも生きにくい世の中での暮らす毎日、小さな満足感に救われることもあるのは確かです。そういうときは対象を人にしないこと。たとえば身の回りの道具(鍋とか掃除機とか靴磨きセットとか)を毎日ひとつずつ丁寧に手入れすることで、そういった満足感は得られませんか?道具は保たれるうえに、初めは同じことを繰り返しているように感じられても着実に身についてスキルアップしていくもの。その成長はアバターではなくその人自身のものです。そういったことに達成感や充足感を求めてみませんか。

 「わかってる。
 それを重ねてきて自分のエネルギーがもう限界なんだ、だから人に求めるんだ。」

 そういう人もいるよね。でも人からエネルギーを得ようとするときに奪っては駄目。それは絶対に駄目です、相手のためにもあなたのためにも。人から奪うというのはすごく成果を得たように錯覚しやすいですよね、相対的に。しかし、「奪って得る」という意識を武器にした時からその人は業の奴隷になってしまいます。奴隷は成果を搾取される存在でしょう?だから満足できないのです。どんなに繰り返しても。どんなにエスカレートしても。
 限界で人からエネルギーをもらいたいときは決して奪い取ろうとしないこと。
 「他者から結果や評価を」もぎ取ろうとするから上手くいかないのです。他者に対してはその「過程」に目を向けたほうがお互い幸せです。相手が植物だったら。種を蒔いた時から今日まで「よく育ったなあ」と植物を讃え自分を褒めることはあっても、「笑顔を向けてくれない」と不快に思ったりはしないでしょう。相手が人間だというだけで何故、対応を変えるのでしょうか。

 巷間言われているように、虐待をする人は自身を大切にする方法を知らない、というのはあると思います。
 自分自身がギリギリと締め上げられていて苦しんでいる。苦しみから逃れたい、あるいは自分の状態を認識すらできないほど苦しい。そこに弱い者、その権利の全てを握れる弱者が現れて。虐げる。楽になる。でもすぐ苦しみでいっぱいになる。また転嫁する。また楽になる。中毒になる。
 蟻地獄のよう。

 もし虐待している人、してしまいそうな人が読んでいたら。

 終わりのない苦しみに自分をはめ込んで、誰かを引きずり込むなんてやめよう?その場所じゃ、誰も楽しくないし誰も幸せにならないって。
 虐待する人を蝕んでいる何か、誰か、本人による問題。苦しい状態を我慢するのは強さではありません。相手に配慮して問題を解決せずに自分が苦しみ続けるのは優しさではありません。子を便利な憂さ晴らしや言い訳の道具にするのは大人のすることではないよ。「弱いから」「バカだから」考えないで済ませられると?それって人間性が失われつつある、とても危険な状態だと思います。今すぐにその場所を離れるんだ!人間でいられる場所に自分を置くんだ。
 自分の責任において、自分を縛る問題を認識して、解決法を考えて。主体が自分であれば、解決法として誰かに相談したり頼ったりというのは肯定されていいと思います。

 どうか人間であることを思い出してください。人間であり続けることを諦めないで。

 今からこの投稿をupしたら、私もコップの茶渋を取る。私自身と、ついでで申し訳ないけど誰かの苦しみがそれで少しでも昇華されますように。


2022.08.31 この日、とある虐待事件が報道され亡き母を思い出して投稿しました。彼女に私の言葉は届かなかった。……いま生きている人は未来を選べます。どうか負けないで。

8月に思う

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 8月は物思う月。
 顧みると幼い頃からずっと繰り返してきた。まあ私は8月に限らずいつでも雑多に考え事をしているのだが、それは物事を俯瞰するための土壌を手入れしているようなものだ。いわば筋肉のトレーニングと同じである。
 8月の考え事は、他の時期とは少し違う。6日、9日、15日。そしてあの年からは12日も。慰霊のための祈りは私にとって「戦争って何だ?」「他の道は無かったか?」「他の道を選べなかったか?」「繰り返さないためにどうするか?」を考えることと同義だ。
 毎年同じことを、年ごとに違う取っ掛かりで考える。ある年は歴史を長めに振り返った。ある年は世界の社会の仕組みについて考えた。ある年は価値観や道徳心の育て方について考えた。
 戦争や事故の犠牲となった人を思って「安らかに」と願い、現在の社会、世界の未来の在り方を考える。過去と同じスタート地点から以前とは違う考え方に辿り着くこともある。ミクロな視点ではあるが、そんなことをずっと続けている。

 「幼い頃のいつから?」と思い出そうとしたことがあったが辿れたのは4歳かせいぜい3歳まで。テレビで中継していた平和式典を見た時の「せんそう、ってなんだろう?」という疑問が始まりだったのだろうと思う。
 父母は戦争を語れる年代ではなく、戦争を実体験として聞かせてくれる祖父母や伯父伯母もいなかった。このため、戦争について私が知り得たのは本や新聞やテレビといった媒体によるある程度整えられた体裁のもの。つまり戦争についての私的な情報がほぼ無い状態で公的な情報だけは揃えられるという極端な状態だった。この状態が私を「考える」という行動に向かわせた。「戦争とは?」と自らが考えることによって内的な空洞を埋め、均衡を得ようとしたのだ。
 均衡は放っておくとまた失われてしまう。社会や世界の情勢は変わるし、私自身も成長したり劣化したりする。平和を願うこと。均衡を保つこと。戦場に迷い込んだ野生動物のような子供時代を送った私にとって、ニュースを見て考えることや内省することが習い性となったのは自然かつ必然だった。


 とはいっても、大層なことを考えてきたわけではない。

 アンテナを張りつつ流されずに自分の頭で考えること。
 相手が在るときには相手も人間だとしっかりと思うこと。
 3つの視点(自分と相手と第3者、現在と過去と未来、前進と後退と待機、良い方向と悪い方向と変わらない方向)を常に意識すること。
 世界は人間のためだけに在るのではないと頭に置いておくこと。
 知らないことや理解できないこと、受け容れがたいことなんて、何歳になっても世の中にたくさんあること。
 それでも、どんなに時間がかかってもいつか理解できるように努め続けること。
 受け容れられないことから距離を置くのは現実的合理的対処であること。
 好き嫌いで判断しないこと。
 赦すこと、慈しむこと。

 いろいろあるけれど、たぶん、幸運にも育つ過程でまともな家庭教育を受けることができた人なら授かりものとして身に付いていそうなことばかりだ。そういう環境には生まれつかなかったけれど、私もまた違った形の幸運に恵まれたのだと感謝している。本を読み、社会に学び、他の人たちより時間はかかっても、これらの考え方に至ることはできたのだから。
 最後はだいたい毎年こんな風に締めくくって、その年の8月の思考を閉じる。これは私にとって(少し時期遅れだが)「思考の虫干し」のようなものなのかもしれない、と最近は捉えている。

 今年の夏も気候が厳しく、世の中はその熱に煽られるように落ち着かない。そのことがとても気がかりで、なのに一方で厭世的になってしまう。いくつもの虫の知らせがありながら客観性を持たせて論理的に伝えることができなくて、自分がもどかしく情けないからだ。
 揺るがぬものは、他所様の子を戦争に送る選択はしたくないとの思い。わが子やわが孫ならその思いは一層強いだろうと想像する。戦争も社会の混乱も、そういう理由でお断りだ。
 わたしにできることはあまりにも小さくて少ない。実効性について考え出したら日本海溝より深く深く落ち込んで、助けの手を差し伸べられても立ち直れないだろう。だから、ネットの辺境に得たこのサイトで祈りと自戒を込めて言葉を紡ぐ。

 考えて、と。

 思ったり感じたりしたことについて、「自分は何故そう思った?何故そう感じた?」と常に問い続けてほしい。理由に思い当ったら、更にもう一段階奥へ「本当にそうだろうか?」と自分に深く問いかけてほしいと思う。そして「相手はどう考えるか?」「本当にそうだろうか?」も忘れないでほしい。可能なら、相手と話ができる関係になることが理想だ。真に話ができる関係を総ての人と築くことはできないが。
 他者の考えというのは実際のところ、直接そして正しく問答が成立してさえもその一部を窺い知ることしかできないものである。けれど近年は、自分の側から見た相手像を正解と祀り上げてしまう姿勢を糺さないケースが増えているように見えて、自戒もしているしとても心配している。

 数は多くないけれどこの文章を読んでくださる方々とともに、偏りのない目線で地に足の着いた思考を重ねていけたらと心から願っています。
 どうか明日も世界がここに在り続けますように。