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つながる心 魂のふしぎ

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 2019年も末を迎えようとしているが、私はいまだにスマホを持っていない。「久しぶりの投稿と思って見に来たら、唐突に何事?」と思わせてしまっただろうか。「スマホ持っていない私cool」という自虐的逆説的自画自賛でもないし、「スマホ欲しいな~?」と夫に圧力をかけているわけでもない。タイトルにつながる話に至るために、自分の立ち位置について明らかにする試みである。日々老化と向き合う私にはスマートフォンは過分で難解で、運転中の夫に頼まれて代わりに操作するだけでも大変な思いをするような状態だ。そんなわけで、ネット社会に浸かりながらもどこか染まりきれないアナログな部分を残した存在だと、自分を位置付けている。
 ついでに説明すると、10年ほど前に死にかけて今で言う終活(生前に人間関係を含めて身の回りを整理すること)をしてしまった。まさかの生き残りを果たしたけれど体力が戻ったわけではなかった私は、人間関係を取り戻す努力をしないことを選択した。4~5歳の時に「出家したい」と切望していた私にとって、他者とのつながりの薄い現在の状況は案外居心地がいい。もともと人間への気持ちが強すぎて、己の力量もわきまえず心をかけすぎて身動きが取れなくなってしまうところがあったから、社会からつかず離れずという辺りで俯瞰するぐらいが自分にはちょうどいいのだ。

 さて前置きが長くなったけど、lawbaは世捨て人のような生き方をさせてもらっている「魂の要介護老人」という現状を認識してもらったところで本題と参りましょう。
 巷でよく語られるちょっといい話のひとつに、昔の写真を見ていたら写っていた友人と街でバッタリ会ったまたは電話がかかってきたというのがありますが。私の場合それが夢の中で起こる。「危ない人だよ!それ完全に気のせいだよ!」と思うでしょう?私もずっとそう思っていた。起きているときの私が懐かしい人たちを思い出した結果、夢として願望をかりそめに形にしたのだと。理性を失いたくないと自分を叱咤した。
 しかし歳を重ねる間に幾度か訪れる、避けようのない別れ。そういったとき、近況を全く知らなかったのに、事前に夢の形で別れを告げに来てくれた彼らの存在が魂のふしぎを裏付ける。どんなに気のせいと思い込もうとしても、彼らが去ってしまったという事実が静かにそこに在る。
 物言わぬ主張が数を重ねて数年前、とうとう私は降参した。これはもう、受け容れざるを得ない。世の中には説明のつかない不思議なこともきっとあるのだ。自分を疑うよりもお別れを言うために訪れてくれた彼らを肯定しようと思った。彼らの気持ちに感謝したいと思った。
 それに死を迎える人だけではなく生者も。母が亡くなった数日後、古い知人が夢の中を訪ねてきてくれたことがあった。夢で目を合わせた相手はたいてい近日中に儚くなってしまうので慄いたが、喪服を着た知人は私と目を合わせ弔意を伝えると、しっかりと来た道を戻っていってくれたので安堵した。知人は夏の終わりはいつも深みにはまるに書いた「運河の役割を担えるような」人なので、魂の護りも強いのかもしれない。
 こんなことがいくつもあって、スピリチュアルやオカルトに分類される事象を肯定する姿勢は私の中に作られてきた。

 トンデモ話と思われそうなことをまたしても敢えて曝したのは、災害の多い年だったからかな。大切な人を失って、悲しい気持ちをしまい込んで苦しんでいる人も多い気がしてしまってね。表層の意識に残っても残らなくても、きっとみんな今の話みたいな体験をしているのではないだろうか。私のように感知することはなくても、あなたが大切に思っていた人やあなたを大切に思ってくれていた人は、去り際にきっと心をひとかけら残してくれていると伝えたい。
 悲しいときは、その気持ちを我慢して抑え込むことはない。大切に思っていたのだもの、目いっぱい悲しむのは当たり前。そうして悲しみが懐かしさに替わる頃、どれだけ後になっても構わないからいつか、相手と自分のために前を向いてください。
 無理せず自然に前を向ける時でいいから。


 greetingのお知らせ欄だとわかりにくいかもしれないのでこちらで。
 いろいろあって、少し更新が滞りそうです。このところ結構遅かったうえに
、更に間隔があいてしまう可能性があるので念のためお伝えしておこうと思いました。投稿できればそれはそれで良し、ということで。
 半年ぐらい前に「このサイトに来てるのはボットだけだよ~」なんてネガティブ発言をしてしまったのですが、最近になって、どうやら読んでくださっている「人間」がいるらしい!と発見しました。
 肯定的な立場でも否定的な立場でも、時間を割いて私の拙い文章を読んでくれるどなたかがいることをありがたく思います。「真摯に言葉を紡いでいかなくては」と心が洗われました。
 ゆっくり更新、主も無理なく続けるサイトとして、よろしければ今後もおつき合いくださいませ。
 感謝を込めて。

言の葉の力

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 台風19号で大きな被害のあった私の住む街も、おかげ様で少しずつ落ち着きを取り戻しつつあります。復旧に尽力してくださっている皆様に心から感謝を申し上げます。

 人間は逞しいですね。こんな時だから敢えてこう言っておこう。人間はたくましい。
 私の住んでいる街は8年前に東日本大震災と原子力発電所事故に遭いました。地震や津波などで、多くの人が家族や家や故郷の風景や大切なものをいっぺんに失くして。現実は待ってくれないから、どうにかこうにか頑張ってきたところでまた今回の水害です。
 それでも、台風前も台風後でさえも肌で感じるのは、悲しみや疲労だけではなく「負けていられない」という静かな熱。

 「前を向いていなきゃ仕様がないものね」。
 そこに込められているのは諦めではなく静かな受容と未来への確かな意志。そんな誰かの思いを乗せた魂のかけらが、人から人へ渡っていくうちに少しずつ数を増やしているのかもしれません。だからこの街は大丈夫。この県も大丈夫。短期間に水害が続いた千葉県も19号で被災した各地も、近年災害の増えている観のある日本もついでみたいで済まないけど世界も、大丈夫。

 ゆっくりと。
 少しずつ。
 今は前を向けない人達も待ちながら。
 みんなで、未来に行くのです。

 今を生きる皆様と未来に生きる皆様へ、今回の生で魂の旅を終える古びた魂の私から言祝ぎを贈ります。

 あら、なんか重たくなってしまいました。軽やかな感じで投稿を締めましょうか。
 生物としての人間を信じます。愛してるぜ人類!!


つなぐもの、意識

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 「身体」の話をなんとか切りあげて、ようやく「意識」の話です…。
 意識、精神、自我。他にもありそう。どの言葉が最適なのかと再確認したのですが、魂、身体と綴ってきたこの一連の投稿においては「意識」で書いていくことにします。冒頭に挙げた単語は、私が(哲学的)世界について考えようと試みるときには概ね同じ意味で使っています(注:日本語としてはそれぞれ他と重ならない部分の意味も併せ持ちます)。そのため哲学科などで専門的な知識を身に着けたかたには「それらの言葉は厳密には違うよ」と読みにくい思いをさせてしまうかもしれません。そこは「茶飲み話と自分で書いていたね」と流していただけるとありがたいです。


 さて、意識と言われて最もピンとくるのは、起きている間の「我思う」ですよね。「我思う」は…話がとてもとても長くなりますね。いずれ別に機会を設けましょう。そういえば昔、「脳と意識、実際に考えているのはどちらだろう??」と悩んだことがあります。なかなか答えが見つからなくて、大人になってからも時々思い出しては「まだ分からないこと」と仕舞いなおしたり。それがパソコンというものが出てきて、「CPUをはじめとしたパーツ一式とOSのようなもの」だと捉えるとスッキリすることに気が付きました。脳と意識の両方が揃うことで考えることができる。どちらと問題を設定したことが間違っていたというわけです。
 それから、意識というものは普段は概ね身体に沿う形に収まっているけれど、眠っているときなどに身体とは違う形に拡がったりずれたりということもありそうです。知らない景色を夢で見るのを睡眠中に意識が空間的に拡がっていた影響と考えると説明がつきませんか? 予知夢というのも同じように、睡眠中に意識が空間だけでなく時間的にも拡がっていた影響と見ると肯定できる気がします。起床後に覚えていることが稀であるために否定的に捉えられがちなのだと思います。


 魂、身体、意識のうち、触れたり見たりできるのは身体だけ。身体はこの世界の物質として確実に存在していると言えます。これだけが事実。この先はすべてが仮定の話になります。
 身体を足掛かりにして考えてみると、物質に過ぎない身体をどのような生命として機能させるかという方向性を定めるものが魂でしょうか。物質である身体と物質では無さそうな魂。位相の異なる両者が奇跡的に重なったところを一時的にひとつのものとして留め置くこと。それが意識の役割だと考えられます。数学の集合の話ですね。
 どんなモノなんだろう、意識。異なるものを引きつけ続けておくなんて、なんとなく重力みたいなイメージです。あるいは重力とは逆の、両者を包み込む膜のようなモノでしょうか。身体も魂もいずれは意識のくくりを離れてそれぞれの位相の重なっていない部分に移動していく、それが死という現象と言えそうです。
 死後、意識はどうなるのかについても考えてみました。魂の項で挙げた伝承によると、魂は眠りについて次の生を待ち、身体も土に還る。意識は、死後の魂が空へのぼる時、魂を守って一緒にのぼっていきます。そして気の川で記憶が洗い流される。ということは、身体が土に還るように意識も気の川に還るのかもしれません。


 一期一会は人と人との縁についての教えですが、魂と身体と意識の組み合わせについても言えることだと思います。あなたも私もこの組み合わせで生きるのは今生限りです。大切に、生ききりましょう。そしてどうか、同じように今生限りを生きている大切な人知らない人、彼らが生ききることもできるだけ尊重する人間であれ。